「ドメニコ・ドラゴネッティ」の版間の差分

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50年にわたり、[[王配]][[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]や[[リンスター公爵]]のような有力者が集まる社交パーティーや、ロンドン楽友協会([[:en:Royal Philharmonic Society|Royal Philharmonic Society]])のコンサートなど、イギリス首都における音楽行事には欠かせない人物となった。
 
彼は[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]とも親交があり、[[ウィーン]]を何度か訪れ、彼らに [[コントラバス]]をソロ楽器として使う可能性を示している。それまでは、オーケストラの譜面では[[チェロ]]と[[コントラバス]]を同じパート譜にするのが普通だったが、ドラゴネッティの演奏技術の影響で、[[コントラバス]]のパート譜を[[チェロ]]のパート譜とは別に変えるようになった。彼の名はまた、彼が生涯をかけて改良した'''ドラゴネッティ弓'''を通じても今日に伝わっている。
 
== 経歴 ==
ドラゴネッティは、[[ヴェネツィア]]にて、床屋で素人音楽家だったピエトロ・ドラゴネッティとカテリーナ・カレガーリの間に誕生した。彼は、父の楽器を使い、自分からギターとコントラバスを弾きはじめた。まもなく、[[ヴァイオリン]]奏者で舞踏曲の作曲家だったドレッティが彼を見出し、市中の人前で演奏するときに彼を伴うようになった。12歳で、彼はヴェネツィアで最高のコントラバス奏者だったベリーニに師事した。ベリーニはたった11回レッスンしただけで、既にこの子には教えることが何も無いと判断した。13歳で、ドラゴネッティはヴェネツィアの喜劇オペラの首席奏者に指名された。14歳のとき、彼は聖ベネデット劇場の[[グランド・オペラ]]の首席コントラバス奏者となった。
 
18歳位のとき、[[トレヴィーゾ]]にて、彼はトマジーニのカルテットに誘わた。そして、[[マルコ (福音記者)|聖マルコ]]の代理人(procurator)のモロジーニ([[:en:Morosini|Morosini]])の目にとまり、[[サン・マルコ寺院]]のオーディションを受けるように薦められた。彼は、[[1784年]]に初めて応募するが、このときはアントニオ・スピネッリに敗れた。結局、彼は[[1787年]][[10月13日]]にここに採用される。このときは、教会のコントラバス奏者5名の末席で、報酬は年に25ダカットだった。しかし、彼はすぐに首席コントラバス奏者となり、[[ロシア皇帝]]から地位を用意して招待を受けるにいたった。その招聘は断ったものの、これによって、彼の報酬は上がった。その頃には、彼は非常に有名になり、当時の[[コントラバス]]奏者としては異例のソロ演奏を行いはじめ、[[ヴェネツィア共和国]]に14人の君主が来訪した際に開催された音楽祭のディレクターに選出されるまでになった。[[ナポリ]]の女妃[[カロリーヌ・ボナパルト|カロリーヌ]]は、彼のコンチェルトのひとつを特に高く評価した。
 
彼は、[[グランド・オペラ]]の仕事で[[ヴィチェンツァ]]に赴いたが、そこで、当地の聖ペテロ[[修道院]]の[[ベネディクト会]]の[[修道女]]から有名なガスパロ・ダ・サロ作の[[コントラバス]]を入手した。この楽器は、現在では[[サン・マルコ寺院]]の博物館に収納されている。彼は[[ロシア皇帝]]から新たな地位を提供されたが、聖マルコの代理人が報酬を50ダカット上乗せしたので、この招待も断った。聖マルコの代理人は、さらに、報酬を継続したままで[[ロンドン]]の王立劇場に1年間行くことを認めた。それは3年間延長されたが、結局、ドラゴネッティはヴェネツィアがフランス支配を受けた[[1805年]]-[[1814年]]の間というごく短期間をのぞいてはヴェネツィアに帰ることはなかった。
「ドラゴネッティが有名なガスパロ・ダ・サロのコントラバスを所有するにいたった経緯には、いくつか諸説がある。フィオーナ・M・パルマーの書いた伝記 『英国のドメニコ・ドラゴネッティ』(Clarendon Press Oxford 1997)は魅力的で高く推奨できる作品だが、この中にある記述が一番もっともらしい。ドラゴネッティのソリストとしての芸術的な妙技は空前の素晴らしさだったので、[[ロンドン]]と[[モスクワ]]の両方から魅力的な仕事の依頼が集まった。これらの依頼を断って ヴェネツィアの聖マルコ公爵領教会(かなり重要なオーケストラ)の首席奏者として留まる代償として、[[1791年]]の契約更新でドラゴネッティは金銭的な賞与を受け取った。
 
ドラゴネッティはまた、彼が暮らし[[グランド・オペラ]]で演奏する[[ウィーン]]の聖ペテロ[[修道院]]にて、[[ベネディクト会]]の[[修道女]]から、ガスパロ・ダ・サロ([[1542年]]-[[1609年]])作の楽器を寄贈されたといわれる。パルマーによる伝記の中の、C.P.A.ベレンジが1906年に書いた記事についての脚注によると、その楽器はガスパロ・ダ・サロが[[ヴィチェンツァ]]の聖ペテロの修道士のために作ったもので、ドラゴネッティの契約を継続するために聖マルコの代理人達(procurators)によって寄贈された。」
 
== 作品 ==
== 参考文献 ==
*Berenzi, Angelo (1906). Di alcuni stumenti fabbricati da Gasparo di Salò posseduti da Ole Bull, da Dragonetti e dalle sorelle Milanollo, in Italian, Brescia: Geroldi.
*Brun, Paul (2000). A new history of the double bass, 240-254, Paul Brun Productions. ISBN 2-9514461-0-1.
*Caffi, Francesco (1987). Elvidio Surian Storia della musica sacra nella già Cappella ducale di S. Marco in Venezia dal 1318 al 1797, in Italian, Firenze. ISBN 8822234790.
*Heyes, David (1996). "The Dragon's Allure--the lasting legacy of Dragonetti". Double Bassist 1 (Spring/Summer).
*Palmer, Fiona (1997). Domenico Dragonetti in England (1794-1846) : the career of a double bass virtuoso. Oxford. ISBN 0198165919.
*Slatford, Rodney (1970). "Domenico Dragonetti". Journal of the Royal Musical Association 97: 21-28;.
*Thayer, Alexander Wheelock (1967). Thayer’s life of Beethoven. Rev. and edited by Elliot Forbes, 208, Princeton University Press. LCCN 66029831.
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