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* 淑善翁主([[1793年]][[4月11日]]([[旧暦]][[3月1日]]) - [[1836年]][[6月7日]]、母は綏嬪朴氏) 永明尉 孝簡公 [[洪顕周]]に降嫁。洪顕周は茶人として知られており、両班で忠清南道系統の洪氏に属する。1男洪祐喆([[1813年]] - [[1850年|1865年]]、正祖の外孫)を儲けた。しかし、洪顕周は女癖が非常に悪く、翁主が酷く苦しめられたため、中宮へ帰宮。後に孝懿皇后の甥である清風金氏の男性に再嫁した。洪祐喆の子に洪承幹(1834年 - 1905年)と洪承億([[1842年]] - 1882年)がおり、正祖の曾孫にあたる。清風金氏とは夫婦仲も非常に良好で子宝にも恵まれた。清風金氏の舅と姑にも孝行を尽くした。翁主は女流詩人、女流茶人としても有名である。
 
正祖の直系子孫として確認できるのは、純祖の系統は玄孫の代(純祖の孫・憲宗の夭折した2人の王女)、淑善翁主の系統は曾孫の代までである。なお、男系男子と男系女子は[[1849年]]に憲宗が23歳で死去し、憲宗の2人の王女が夭折したことで断絶している。つまり、現在まで正祖の血筋が存続している可能性があるのは、女系である淑善翁主の系統のみとなる(少なくとも淑善翁主の孫にあたる洪承幹が朝鮮王朝末期の1905年まで存命している為、憲宗の死から56年間、正祖の血筋は残っている)
 
== 系図 ==