「田タン」の版間の差分

編集の要約なし
[[狄]]の出身で、斉王の田氏の後裔であった。田儋の一族は、従弟に田栄・田横がおり、強い勢力を有していた。
 
秦の[[胡亥|二世]]元年([[紀元前209年]])7月、[[陳勝・呉広の乱]]が起こって中国全土が騒乱状態になると、[[陳勝]]は[[周フツ|周巿]]を遣わし、魏の地を攻略させた。周巿は北上して狄にまで至った。狄では、(周巿の攻撃に備えて)、秦の[[県令]]が城の守りを固めていた。
 
二世2年([[紀元前208年]])10月、田儋は偽って、自分の[[奴隷]]を縛り上げ、若者たちを従えて県令のところにいき、県令に告げてから奴隷を殺すことを求めた。狄の県令が会見すると、県令を討ち殺す。そして、権勢のある[[官吏]]やその子弟を呼んで言った。「諸侯は皆、秦に反乱を起こして自立した。斉は昔から建っていて古い国であり、田儋は(その斉の王であった)田氏である。王になって当然だ」。ついに、自立して斉王を名乗り、兵を発して、周巿を攻撃した。周巿は撤退していった。そこで、田儋は兵を率いて、東方の斉の地を平定・攻略していった。
 
同年12月、陳勝が秦の将軍の[[章邯]]と戦い敗走して、部下の荘賈に裏切られて殺される。
匿名利用者