=== ナマクア人の蜂起 ===
{{Main|[[コイコイ人|ホッテントット族]]|[[ナマ人|ナマクア人]]}}
[[1893年]]から[[1894年]]にかけて、伝説的な首長[[ヘンドリック・ヴィットボーイ]]([[:en:Hendrik Witbooi (Namaqua chief)|Hendrik Witbooi]])が率いる[[コイコイ人|ホッテントット族]]最大の部族ナマクア人による最初の[[ホッテントット蜂起]]が発生し(第一次ホッテントット蜂起)が発生し、ナマクア人の伝説的な首長[[ヘンドリック・ヴィットボーイ]]([[:en:Hendrik Witbooi (Namaqua chief)|Hendrik Witbooi]])が現れツの植民地支配に抵抗した。
[[1904年]]秋後半にも、ナマクア人は指導者ヘンドリック・ヴィットボーイと、''黒いナポレオン''と称された[[ヤコブ・マレンゴ]]([[:en:Jakobus Morenga]])の指揮のもとで植民地政権支配に対する闘争に突入が発生したている(第二次ホッテントット蜂起)。
=== ヘレロ人の蜂起 ===
{{Main|ヘレロ人}}
同じ年にドイツ支配に対する先住民暴動がさらに奥地で多く発生し、最大のものは[[1904年]]の{{仮リンク|ヘレロ戦争|ru|Восстание племён гереро и нама (1904—1907)|en|Herero Wars}}(ヘレロ反乱)である。ヘレロ戦争の端緒となった事件では人里離れた遠隔地の農場が攻撃され、およそ150人のドイツ人移民が殺害された。わずか766名の{{仮リンク|植民地防衛隊 (ドイツ帝国)|de|Schutztruppe|en|Schutztruppe|label=防衛隊}}([[:en:Schutztruppe|Schutztruppe]])と先住民による補助軍部隊は、最初は多勢のヘレロ人と数の上で対等劣勢でなかあった。ヘレロ人が攻勢に転じ、時には[[オカハンジャ]]と[[ウィントフック|ヴィントフーク]]周辺を包囲し、[[オソナ]]にある[[鉄道橋]]を破壊した。ドイツ本国から急いで[[ロタール・フォン・トロッタ]]中将が指揮をとる14,000人の増兵部隊が、ドイツ本国から急いで派遣され、1904年8月、{{仮リンク|ウォーターバーグの戦い|en|Battle of Waterberg}}で暴徒において反乱を打破鎮圧した。
=== ヘレロ・ナマクア虐殺 ===
{{Main|ヘレロ・ナマクア虐殺}}
早い内に[[ドイツ軍]]のフォン・トロッタ司令官は、ヘレロ人に対し最後通牒を発しており、ドイツ国民になる権利を否定しドイツ人、この地域を追い出するか殺害しようとすされるヘレロ人に対し最後通牒かを発し迫った。フォン・トロッタ司令官は1904年[[10月2日]]に武装、非武装、老若男女を問わず、全てのヘレロ人を抹殺する旨の宣言を発令した<ref>[[#わたしたちのナミビア(1990)|わたしたちのナミビア(1990:123-128)]]</ref>。逃亡する手段として、ヘレロ人は[[カラハリ砂漠]]の西端である水の乏しい[[オマヘケ州|オマヘケ]]地方へと避難し、多くがそこで飢えて死んだ亡した。
この反乱は、1907年から1908年の間に最終的に抑え込まれた。合計で、25,000人から100,000人のヘレロ人、10,000人以上のナマクア人、1,749人のドイツ人がこれらの対立で犠牲となった。この戦争によってヘレロ人の80%以上が殺害され<ref>[[#わたしたちのナミビア(1990)|わたしたちのナミビア(1990:131)]]</ref>、ごく少数のヘレロ人だけが隣接するイギリス領植民地へ逃亡を成し遂げた。
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