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'''葛野王'''(かどののおう/かどののおおきみ、[[天智天皇]]8年([[669年]]) - [[慶雲]]2年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]([[706年]][[1月9日]]))は、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]。[[弘文天皇]](大友皇子)の第一[[皇子]]。孫に[[光仁天皇]]の従兄、[[淡海三船]]がいの祖父にあたる。[[官位]]は[[正四位|正四位上]]・[[式部省|式部卿]]。
 
== 経歴 ==
持統朝にて[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|浄大肆]]・[[治部省|治部卿]]に叙任される。[[持統天皇]]10年([[696年]])に[[皇族]]の筆頭であった[[太政大臣]]・[[高市皇子]]が薨去した後、[[持統天皇]]が[[皇族]]・[[公卿]]・[[官人]]を宮中に召して[[皇太子]]の擁立について議論させた。しかし、群臣はそれぞれ自分に都合の良い意見を言い合い、議論は紛糾した。この時、葛野王は前に進み出て直系による[[皇位]]継承]]を主張した([[藤原不比等]]が入れ知恵したのだとする意見もある)。
 
* 日本では[[神代]]から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。