「神田康秋」の版間の差分

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| 最終学歴 = [[東洋大学]]社会学部
| 在籍局 =
| 所属事務所 = <!-- 契約アナウみづま工房(キャスティサーの場合に使用 -->グ事業を委託)
| 部署 =
| 職歴 = テレビ新広島アナウンサー → テレビ新広島 局長 → [[tssプロダクション]]常務取締役 → テレビ新広島 常勤顧問 → [[フリーアナウンサー]]
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| 備考 =
}}
'''神田 康秋'''(かんだ やすあき、[[1951年]][[9月24日]]<ref name="tsskanda" /> - )は、[[フリーアナウンサー]]([[みづま工房]]にキャスティング事業を委託)。[[テレビ新広島]]の元[[アナウンサー]]。[[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]出身。[[広島県立海田高等学校]]、[[東洋大学]][[社会学部]][[卒業]]後、[[1975年]]、テレビ新広島の開局とともに入社した。系列局の同期入社に元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナの[[堺正幸]]、[[酒井ゆきえ]](現・タレント)、[[田丸美寿々]](現・ニュースキャスター)、[[和田圭]]、[[伊藤治明]] (元[[北海道文化放送]]アナウンサー)、[[浅見博幸]](元[[仙台放送]]アナウンサー)、[[小笠原和人]](元[[福島テレビ]]アナウンサー)がいる。
 
== 来歴・人物 ==
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[[プロ野球中継]]では、年3試合程の対[[読売ジャイアンツ]]戦は必ず実況を担当した。実況やリポートの姿勢は、球場で観戦していてもいなくても満足出来るように、そのままの興奮を伝えることだったということで、[[ホームラン]]の時に「ドッカーン!」と叫んだこともあり、自ら「絶叫アナウンサー1号」と言われたという<ref name="proogonjidai4"/>。[[2004年]]、[[ナゴヤドーム]]で行われた「[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|サンヨーオールスターゲーム]]」の実況を最後に「後進に道を譲りたい」として野球実況から引退した。試合後の引退パーティーでは、解説の[[星野仙一]]、[[関根潤三]]からエールがおくられ、ステージ上で泣いた(その年の残り1試合あった対巨人戦の中継は[[矢野寛樹]]アナウンサーが担当。以後のテレビ新広島のプロ野球中継のメイン実況は矢野アナとなった)。
 
1993年に、長年テレビ新広島の解説者を務め、師と慕っていた[[森永勝也]]が逝去した際には、夫人から「神田さんに全てをお任せしたい」と葬儀委員長を依頼され受託、葬儀会社の手配・会場の準備・式次第の作成などを行った。本人のみならずテレビ新広島も協力し、会場の受付を同局のアナウンサーが行うなど、会社を挙げて森永の生前の功労に対する追悼を行った<ref>『私が愛した広島カープ: 歴代優勝監督巡礼+マル秘エピソード集』225 - 228ページ「森永さんの葬儀委員長として奮励」。</ref>。
 
一方で、[[1994年]]から[[2000年]]まで朝の生活情報番組『[[どっこい!神田の日めくりテレビ]]』のキャスターを担当し、「[[tssスーパーニュース]]」では[[石井百恵]][[アナウンサー]]とともにキャスターを務めた。
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局長就任後、関連会社「[[tssプロダクション]]」に出向。常務取締役を担当した。
 
その後、退社・フリー転向までテレビ新広島の常勤顧問をしながら『かんちゃんのイベント情報・プレゼン』を担当し歯切れ良いユニークなトークは健在
 
== フリーアナウンサー時代 ==