「大多羅寄宮」の版間の差分

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==概要==
江戸時代の[[寛文]]6年([[1666年]])に、当時の[[岡山藩]]主・[[池田政]]は藩の領地である[[備前国]]内の[[産土神]]601社全ての由緒を調査させ、領地内にあった祠や社10524社を廃して、71社の寄宮(複数の神社を[[合祀]]した神社)として再編した。
 
さらに[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])、[[岡山藩]]主・[[池田綱政]]は[[上東郡]][[大多羅村]]の[[芥子山]]南西中腹にあった句句廼馳神社(くくのちじんじゃ)の境内を広げ、71社の寄せ宮の内の66社を境内に合祀し社殿を建て、大多羅寄宮とした。岡山藩は大多羅寄宮に毎年社殿の修理費と神供料を支給していた。
 
[[明治]]になり[[廃藩置県]]によって岡山藩の社殿運営費用が途絶えたため、明治8年([[1875年]])に大多羅寄宮は句句廼馳神社とともに芥子山南西麓にある[[布勢神社 (岡山市)|布勢神社]]に合祀され、現在に至っている。なお、旧境内地には石垣・石段・社殿跡などが現存している。