「フランツ・フォン・パーペン」の版間の差分

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'''フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペン'''(Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen{{Audio|Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen.ogg|音声}}, Erbsälzer zu Werl und Neuwerk, [[1879年]][[10月29日]] - [[1969年]][[5月2日]])は、[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]、[[外交官]]。
 
[[ヴァイマル共和政]]末期の1932年に[[クルト・フォン・シュライヒャー]]に擁立されて[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領の[[大統領内閣]]の首相を務めたが、{{仮リンク|パーペン内閣|de|Kabinett Papen}}は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した。その後、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)党首[[アドルフ・ヒトラー]]と接近し、彼が首相になれるよう尽力するなど[[ナチ党の権力掌握]]に大きな役割を果たした。1933年の[[ヒトラー内閣]]成立でヒトラーに次ぐ副首相の座に就いた。しかし「[[長いナイフの夜]]」事件で失脚し、その後は[[オーストリア]]や[[トルコ]]でドイツ大使を務めた。[[第二次世界大戦]]後、[[ニュルンベルク裁判]]で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。
 
== 経歴 ==
=== ナチ支配の確立後、大使に ===
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-S00017, Franz von Papen.jpg|150px|thumb|大使時代のパーペン。1936年]]
1934年7月25日、[[オーストリア]]首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]が[[オーストリア・ナチス党]]によって暗殺された。この暗殺は[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]の部下が[[クーデター]]を計画して行ったものだったが、クーデター自体は失敗に終わった。ドルフースはイタリアの[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]首相と親しく、オーストリアの独立はイタリアにとって重要であったため、かつてバチカンを訪問した際にもパーペンはムッソリーニにドルフースを支持しないよう説得するも失敗しており<ref>Weinberg, Gerhard (1970). The Foreign Policy of Hitler's Germany: Diplomatic Revolution in Europe. Chicago, IL: University of Chicago Press. p.90</ref>、事態が明らかになると独伊関係が崩壊するおそれがあった。ムッソリーニはイタリア軍四個師団を伊墺国境に配備し、介入の姿勢を見せた。
 
26日午前2時、ヒトラーはパーペンに連絡を取り、[[ウィーン]][[公使]]就任の要請を行った。翌日ヒトラーと面会したパーペンは要請を受諾したが、オーストリア側の[[アグレマン]]が得られず、ウィーンには向かえなかった。その間の8月2日にヒンデンブルク大統領は死去。ヒンデンブルクは公式の遺言状に帝政復活の希望を記しておらず、ヒトラーが「国家元首兼首相」([[総統]])としてドイツを支配する独裁体制が完成し、パーペンの企図した帝政復活計画は潰えた。8月7日、オーストリア政府からアグレマンが行われ、パーペンは副首相を辞任して正式にウィーン公使となった。パーペンは8月15日にウィーンに赴任し、ヒトラー関与の隠蔽と事態の収拾に努めた<ref> 京大西洋史辞典編纂会編, “新編西洋史辞典,” 改訂増補, 東京創元社, 1993.</ref>。
 
[[1936年]]からは駐オーストリア大使に任じられ、[[アンシュルス|オーストリア併合]]に暗躍した。1937年にムッソリーニがドイツを訪問した際はイタリアと協議するオーストリアの問題をめぐるヒトラーの顧問を務めた<ref>Weinberg, Gerhard (1980). The Foreign Policy of Hitler's Germany: Starting World War II. Chicago: University of Chicago Press. p.236.</ref>。後にパーペンは、この時期の自らの活動は回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している<ref name="ヴィストリヒ185">ヴィストリヒ、185頁</ref>。[[1938年]][[8月13日]]に[[黄金ナチ党員バッジ]]を授与され、同時にナチ党に入党した(党員番号5,501,100)。[[1939年]]からは[[トルコ]]駐在大使を務め、[[第二次世界大戦]]で中立を保つトルコを[[中央同盟国]]時代のようにドイツ側にする工作に従事し、[[1941年]]にはドイツ・トルコ相互不可侵条約が締結された。しかしトルコは中立を維持し続け、ソ連のエージェントによる暗殺未遂事件にも遭遇する。[[ノルマンディー上陸作戦]]前にはキケロと呼ばれるスパイ([[エリエサ・バズナ]])からイギリス大使館の情報を収集したが、これは連合軍の欺瞞作戦{{仮リンク|ボディガード作戦|en|Operation Bodyguard}}によるものであり、結果としてドイツに誤情報をもたらすこととなった。[[1944年]]にトルコはドイツとの外交関係を断絶しパーペンは帰国した。ローマ教皇庁への大使起用が検討されたが、ベルリン司教の反対で実現しなかった。同年7月の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]で友人知己が逮捕され助命に努力したが、成功しなかった。以降、ドイツに[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が迫る中も[[ゲシュタポ]]の監視を受けていた。
 
=== ニュルンベルク裁判 ===