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淮河と洪沢湖の治水は古代からの中華王朝の課題であった。[[後漢]]の建安5年([[200年]])に高家堰という長さ30里の堤防がこの周辺にできた。[[明|明代]]には淮河や黄河の氾濫で歴代の[[漕運総督]]は洪沢湖の治水に力を入れ、高家堰をもとに洪沢湖大堤を大きくしていった。特に漕運総督潘季馴は大堤を延長して現在の基本を造り、清中期までに現在見るような長さ60里の石造の洪沢湖大堤が出来上がった。この堤防は[[中華人民共和国全国重点文物保護単位]]にも指定されている。
 
[[File:行摄梓地 www.hiroko.cn MRG 8974.jpg|thumb|none|洪沢湖大堤]]
[[1951年]]から[[1952年]]にかけて、[[毛沢東]]の指令により淮安市[[洪沢県]]から[[塩城市]][[浜海県]]までを結ぶ蘇北灌漑総渠という放水路が作られた。洪沢湖から黄海への水路が復活し、これにより淮河の治水と江蘇省北部の灌漑という二つの目的が達せられた。