「信陵君」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
修正箇所差し戻し。誤字ではなく、生年不詳を?と表記しているものと思われる為
タグ: 取り消し
編集の要約なし
1行目:
'''信陵君'''(しんりょうくん、? - [[紀元前244年]])は、[[中国|東周]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[魏 (戦国)|魏]]の[[公子]]であり、[[政治家]]・[[軍人]]。三代[[昭王 (魏)|昭王]]の子。[[姓]]は'''姫'''、[[氏 (中国)|氏]]は'''魏'''、[[諱]]は'''無忌'''。[[戦国四君]]の一人。大国[[秦]]によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、異母の[[安釐]]に疑われて憂死した。[[前漢]]の[[魏無知]]の父と伝わる<ref>『[[新唐書]]』巻七十二中、宰相世系表中、魏氏より。</ref>。
 
兄が[[安釐王]]として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えた。
 
== 略歴 ==
12行目:
 
=== 趙への援軍 ===
[[紀元前258年]]、[[長平の戦い]]にて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都[[邯鄲市|邯鄲]]を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、[[晋鄙]]を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の[[食客]]による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。
 
この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための[[割符]]は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する[[如姫]]に盗ませなされ<ref>かつて、魏王の寵愛する如姫の父が殺されたときに、魏王を始めとした廻りの人に[[敵討ち]]を頼むものの、誰も相手にしなかった。しかし信陵君は頼まれるや、自らの客を使って犯人を見つけ出し仇を討ったため、如姫は信陵君に恩義を覚えている。</ref>。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命を手向けとさせて頂きます」といった。
23行目:
 
=== 帰国 ===
[[紀元前248年]]、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五国の軍をまとめて秦の[[蒙ゴウ|蒙驁]]([[蒙恬]]の祖父)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが伺える。そして連合軍はついに[[函谷関]]に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。
 
=== 失脚 ===
31行目:
その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、[[紀元前225年]]に滅亡する。
 
なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちに[[前漢|漢]]の功臣の一人となる[[張耳]]も含まれていた。
 
また[[前漢]]の初代[[皇帝]]である[[劉邦]]からも尊敬されており、[[大梁]]を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。
 
== 脚注 ==