「小槻国宗」の版間の差分

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→‎経歴: 惟任と淳方は同一人
→‎経歴: 荘園の開発
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[[治承]]3年([[1179年]])[[史 (律令制)|六位史]]となるが、翌治承4年([[1180年]])これを辞して一旦弁官局を去り、[[養和]]元年([[1181年]])[[大膳職|大膳亮]]に任ぜられる。
 
[[建久]]9年([[1198年]])10月に父の左大史・[[小槻隆職]]が危篤となると、その後任を巡って従兄弟の[[小槻広房]]と争うが、隆職が所帯の[[官職]]を国宗に譲ることを請願して許され<ref>『自暦記』建久9年10月23日条</ref>、12月になって国宗は左大史に任ぜられた。その後、約25年に亘って国宗は大夫史の地位を占める一方、[[主殿寮|主殿頭]]や[[穀倉院|穀倉院別当]]を兼ねたほか、[[伊勢国#国司|伊勢守]]の兼国にも与っている。なお、主殿頭については国宗以降、子孫に世襲されるようになったとされる<ref>『壬生家文書』3</ref>。また隆職と同様に、国宗も大夫史の立場を利用して、その経済基盤となる官厨家便補保([[太政官厨家|太政官厨家領]])の開発・立保を精力的に行った<ref>文永五年月日「官中便補地別相伝並由緒注文」『壬生家文書』314</ref>。
 
[[貞応]]2年([[1223年]])7月20日[[崩御#卒去|卒去]]するが、子息の[[小槻淳方|惟任]]が幼少であったことから広房の孫にあたる[[小槻季継]]が大夫史を継いだ<ref>小槻惟任申状案『壬生家文書』23</ref>。国宗は[[儀礼]]を好んで様々な儀礼を主張したが、国宗によって打ち立てられた儀礼の流儀は、季継には[[故実]]として受け継がれなったという<ref>『小槻季継記』</ref>。