「応仁の乱」の版間の差分

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このころ、管領[[畠山政長]]と義弟[[畠山義就]]との間にも、家督継承権をめぐって騒動が発生していた。政長は勝元と義就は宗全と誼を通じ、両者は後ろ盾を頼んで激しく対立したが、足利義政は、この処遇をめぐっても無責任であった。政長と義就に対して勘当と赦免をくり返したのである
 
そもそも畠山家総領の地位は義就であったが、享徳のころ(1452年ころ)、内紛によって義就は追放され、従兄弟である政長がその地位に就いた。その後、義就が宗全を頼って復権を画策していたところ、十数年を経て義政は宗全に懐柔されて、政長や勝元に断ることなく義就を赦免したのである。
1467年(応仁元年正月)、義政は正月恒例の管領屋敷(このときは政長邸)への「お成り」をするかわりに、義就が宗全邸で開いた酒宴に出席して義就の管領職を追認する。事実上、勘当排斥された政長は、1467年(応仁元年正月17日)、自らの邸に火を放つと[[上御霊社]]に陣を敷き義就との戦いを決意した。新管領義就は勢いを駆って上御霊社に乱入した。政長は勝元の加勢を頼んだが、勝元は賊軍となることを恐れて自重した。政長は奮戦したが、多勢に無勢、後日を期して都を落ちていった。
 
1467年(応仁元年正月)、義政は正月恒例の管領屋敷(このときは政長邸)への「お成り」を行わなかったばかりか義就が宗全邸で開いた酒宴に出席する。そのことは義就管領職就任の追認を意味した。
 
その後宗全は、政変を有利に進めるために兵を呼び寄せ、[[内裏]]と[[花の御所]](将軍邸)を囲んで固めると、諸大名が加担しないことを条件に政長と義就が雌雄を決することを義政に認めさせた。
 
事実上廃嫡され賊軍に近い扱いを受けた政長は勝元に援助を求めたが、勝元は天皇と将軍が宗全派に掌握されていたため、賊軍となることを恐れて援軍を出すのを断った。
 
1467年(応仁元年正月17日)義就との戦いを決意した政長は、無防備であった自邸に火を放つと、2000の兵を率いて竹薮に囲まれた[[上御霊社]]に陣を敷いた。
 
ここに決戦の幕が落とされ、新管領義就は勢いを駆って上御霊社に乱入したが、政長は少数でよく持ちこたえ夜陰にまぎれて都から逃亡してしまった。
 
== 東西軍の対峙 ==