「ユーリ・ルシコフ」の版間の差分

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[[1991年]]の[[ソ連8月クーデター]]後、ソ連国民経済管理委員会(暫定政府)に副議長(副首相)として入り、12月までの短期間であったが、国内商業、対外経済関係、社会政策、農工コンプレックスなどを担当した。この時期は、同じく副議長に任命された[[グリゴリー・ヤブリンスキー]]と親しく、ヤブリンスキーが主導したいくつかの計画に参画した。また、同年6月にポポフ市長によりモスクワ市政府首相に指名された。ポポフ辞任後の[[1992年]]6月より[[ボリス・エリツィン|エリツィン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]にモスクワ市長に任命される。[[1996年]]6月の市長選挙では90%を超える得票率で当選。
 
[[1998年]]11月に地方首長を集めて政治ブロック'''「祖国」'''を結成し、[[1999年]]8月に[[エフゲニー・プリマコフ]]の'''「全ロシア」'''と合同し、'''「[[祖国・全ロシア]]」'''を結成した。「祖国・全ロシア」は、モスクワ市長として高い評価を得たルシコフと、[[ロシア金融危機]]を収束させたプリマコフが連合を組んだため、国民の支持が集まると予想されたものの、実際にはクレムリンの肝いりで[[政権]][[与党]]「統一」が結成され、12月の[[下院]][[国家院 (ロシア)|国家会議]]選挙では、統一の追撃と、国営メディアを利用した[[クレムリン]]による中傷により、[[ロシア連邦共産党|共産党]]と統一に次ぐ第三党に甘んじた。下院選挙と同時に実施されたモスクワ市長選挙でルシコフは、71%の得票率で再選された。ルシコフは、選挙後、政権に近づき、「祖国・全ロシア」を「統一」と合流させ、新政治ブロック'''「[[統一ロシア]]」'''を結成し、[[ミンチメル・シャイミーエフ]]や[[セルゲイ・ショイグ]]とともに党最高会議共同代表議長(党首)に就任した<ref>[http://www.polit.ru/news/2001/12/01/567458.html ПОЛИТ.РУ \ НОВОСТИ \ Съезд центристов избрал Генеральный совет «Единства и Отечества» и призвал россиян вступать в ряды новой партии].</ref>。かくて強力な[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]政権与党を結成し、[[2003年]]の下院選挙で「統一ロシア」は第一党となった。同日実施のモスクワ市長選挙でルシコフは75%の得票率を獲得し三選された。
 
卓越した行政手腕の持ち主で、市長として高い評価を得ており、モスクワに外国から巨額の投資を呼び込み(ロシア全体の5割に相当)、モスクワを[[社会主義]]国家の首都から、[[資本主義]]経済下の大都市へと変化させた。一方で、[[秘密警察]][[チェーカー]]の創設者[[フェリックス・ジェルジンスキー|ジェルジンスキー]]像の再建<ref>{{cite news| url=http://www.memo.ru/eng/news/2002/10/0124102002.htm|publisher=memo.ru|title=About the Yuri Luzhkov proposal for the Dzerzhinsky monument restoration|date=2002-09-12|accessdate=2016-08-25}}</ref>、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]のポスター陳列する計画<ref>{{cite news| url=http://russiapedia.rt.com/prominent-russians/politics-and-society/yury-luzhkov/|publisher=RT|title=Prominent Russians: Yury Luzhkov|accessdate=2016-08-25}}</ref>するなど国内外で物議を醸す主張も行った。
 
長期政権化が続く中でクレムリンとの対立が深まり、[[2010年]][[9月28日]]に[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]]大統領によって解任された<ref>{{Cite news