「ミンチメル・シャイミーエフ」の版間の差分

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1967年、ソ連共産党タタール州委員会農業課の教官、副主任として働く。[[1969年]]、タタール共和国土地改良・水利事業大臣、[[1983年]]タタール閣僚会議第一副議長(第一副首相)、ソ連共産党タタール州委員会書記を経て、1985年、タタール閣僚会議議長([[首相]])となる。[[1989年]]にはソ連人民代議員に選出され、ソ連共産党タタール州委員会第一書記となり、1990年にソ連共産党中央委員となった。
 
1990年8月30日、タタールスタン共和国[[最高会議]]議長として主権宣言し、[[1991年]]6月12日には共和国大統領に選出され、同年8月の[[ソ連8月クーデター]]の際は[[国家非常事態委員会]]を支持した。[[ソ連崩壊]]後の1992年にタタールスタンを主権国家と定義する新憲法の制定に関する国民投票を行った際は約62%が賛成票に投じられた<ref name="tatarconstitution">{{cite web|url=http://www.tatar.ru/?DNSID=00e155d5981552f75e4d0fdddfc92952&node_id=222|archive-url=https://web.archive.org/web/20060925011839/http://www.tatar.ru/?DNSID=00e155d5981552f75e4d0fdddfc92952&node_id=222|url-status=dead|archive-date=September 25, 2006|title=Конституция Республики Татарстан : Республика Татарстан|date=September 25, 2006|accessdate=2020-10-12}}</ref>。しかし、この国民投票と憲法はロシアの裁判所によって違憲とされ<ref name="rAcdz">{{cite web|url=http://www.rbcdaily.ru/politics/562949990857614 |title=Заявились в Россию :: Общество :: Газета РБК |website=Rbcdaily.ru |date=2014-03-17 |accessdate=20162020-1210-3112}}</ref>、シャイミーエフはタタールスタンの分離独立を志向する急進的な民族主義を抑制しつつ[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領率いるロシア連邦政府と丁々発止の交渉を繰り広げることで妥協を引き出し、1994年2月15日には他のロシア連邦構成主体に先駆けて中央政府との間に権限分割条約を調印することができた。タタールスタンにはロシアのイスラム教徒の約48%が集中していたこともシャイミーエフを無視できない事情があったともされる。
 
[[1996年]]の共和国大統領選挙では、シャイミーエフに対して対立候補者は立たず、シャイミーエフは、有効票中97%の得票率を得て当選した。[[1999年]]下院国家会議選挙では、[[エフゲニー・プリマコフ]]元首相、[[ユーリ・ルシコフ]]・[[モスクワ]]市長と政治ブロック「[[祖国・全ロシア]]」を結成し、エリツィンに挑戦したが、プーチン旋風で与党「統一」が勝利するや、「祖国・全ロシア」と「統一」を統合して新たな与党「[[統一ロシア]]」を結成し、ルシコフや[[セルゲイ・ショイグ]]とともに党最高会議共同議長(党首)に就任した<ref>[http://www.polit.ru/news/2001/12/01/567458.html ПОЛИТ.РУ \ НОВОСТИ \ Съезд центристов избрал Генеральный совет «Единства и Отечества» и призвал россиян вступать в ряды новой партии].</ref>。
 
[[1998年]]、ケンブリッジ国際伝記センターは、シャイミーエフを「今年の人」に選んだ。[[2001年]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]は、文化・歴史財産の保護への大きな貢献に対して、アヴィツェンナ銀メダルを授与した。2005年、国際慈善財団「世紀のパトロン」からルビー十字章、並びにロシア連邦とユネスコ間の協力への貢献に対して「ロシア-ユネスコ」記念メダルを受賞した。
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==