「日本教会音楽研究会」の版間の差分
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'''日本教会音楽研究会'''(にほんきょうかいおんがくけんきゅうかい)は、[[東京都]][[練馬区]][[桜台 (練馬区)|桜台]]に事務所があ
1958年に[[中田羽後]]らによって『[[聖歌 (日本福音連盟)|聖歌』]]が出版される。その頃から、現代表の和田健治が元代表の中田羽後に師事し始め、教会音楽の理論を学び、共に研究するようになる。
1968年に中田羽後は狭心症で入院。視力や体力は衰え、退院後、関係者の勧めで1969年1月に、和田健治と一緒に月刊『聖歌の友』を創刊して主筆となった。編集・発行は和田健治(23年間にわたり195号まで発行)。「聖歌」の普及を目的とし、教会音楽の研究の成果を世に発表し始める。中田の生涯を記録する資料は後継者の和田に与え、また「聖歌の友」を刊行した[[屋号]]を「聖歌の友社」と称した。それ以降、当会の出版部門を「聖歌の友社」としている。
1971年より、教会音楽全国講習会を毎年開催して、教会音楽の理論と実技の充実を図り、一方青年のための聖歌集として、1972年に『青年聖歌』を発行した。1974年に中田羽後が急逝する。中田の遺言により、和田健治が中田の出版物のすべてを所有することが決まり、中田の研究を和田が引き継いだ。▼
1971年に中田羽後は心筋梗塞で入院。活動が医者から止められて、和田に対し、今後、中田著作物全体を聖歌の友社から順次、未発表のものから出版して永く残すこと。その経費や編集などは本来、著作者の責任であるが、余裕がないので全て和田が負担して行ってもらいたい。ゆえに中田著作物の複製使用は、勿論無料であり、遺言書には「『聖歌の友』の主筆は和田健治に移る。従って、聖歌の友社出版の諸出版物は、今まで通り和田健治が所有する」と記しておくと約束し、託した。
[[教文館]]が新聖歌を発表した後に、[[教文館]]は聖歌の[[版権]]について法的に争い、教文館が版権を取り、聖歌が廃刊になると。日本の教会の成長のためには聖歌が必要不可欠であるとの信念で、和田らが中心になって、2002年に聖歌を改定した聖歌 (総合版)を聖歌の友社より出版した。▼
そこで同年より、和田健治は中田羽後訳詞「メサイア」「青年聖歌」「聖楽独唱名曲集」「子供聖歌」などは、中田の生前に出版した。同時に普及活動も行いつつ、それ以後も今日まで、出版と普及活動を続けて来た。特に「メサイア」は、「日本語で歌うことは無理だ」と一般に言われて来たものであり、出版費用も、楽譜作りも非常に困難であったが、成功した歴史的なものである。なお、和田は自分で主宰・指揮して、生涯にわたり合計62回開催し、普及に努めて来た。
「聖歌」を中心に、講習会や学校形態による超教派の教会音楽の指導活動と中田羽後の遺産である聖歌に関する著作集の、保存公開を行う記念館の建設を目指して活動している。また、今後の新しい聖歌を編集する編集者の育成を目指している。▼
▲1971年より、教会音楽全国講習会を毎年開催して、『聖歌』を中心に教会音楽の理論と実技の充実を図
2001年に『新聖歌』が和田には相談なしに出版され、同時に『聖歌』が廃刊されてしまう。そこで全国的な要請が起こり、日本の教会の成長のためには聖歌が必要不可欠であるとの信念で、2002年に聖歌の友社より、和田健治が新たに編集した『聖歌』総合版を出版した。ところが販売妨害が生じたため、和田健治は妨害差し止め請求による裁判をした結果、妨害理由とされた『聖歌』総合版の書名、記譜のスタイル、編集著作権などが認められて解決し、確定した。
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==関係者==
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