「兼六園」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 Androidアプリ編集 |
|||
35行目:
== 歴史 ==
=== 江戸時代 ===
[[1676年]]([[延宝]]4年)、[[加賀藩]]
11代藩主の[[前田斉広]]は、[[1819年]]([[文政]]2年)に37歳で隠居を表明した後、千歳台で自身の隠居所の建設を始め、藩校は現在の[[いしかわ四高記念公園]]の場所に移した。3年後の[[1822年]](文政5年)には建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」を完成し、この年に白河楽翁([[松平定信]])によって兼六園と命名された{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=100}}。斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主[[前田斉泰]]によって取り壊されるが、斉泰は[[1837年]](天保8年)に霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築いたり<ref>入園券</ref>、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備し、[[1860年]]([[万延]]元年)には蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築いた<ref name="歴史"/>。
|