「弥生人」の版間の差分

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頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代の河南省、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった<ref>中国江南・江淮の古人骨-渡来系弥生人の原郷をたずねる-山口 敏・中嶋孝博 2007年</ref>。
 
また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、[[歯]]のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも高い。しかしながら、こうした人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である[[支石墓]]から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに[[瀬戸内地方]]の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の[[唐古・鍵遺跡]]の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。<ref>「なぜ農耕文化は終わったのか」岡村道雄『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年4月</ref>
 
一方、[[1960年]]代になると[[金関丈夫]]が、山口県[[土井ヶ浜遺跡]]や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが中国大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し<ref>東アジアと『半島空間』―山東半島と遼東半島 千田 稔 ,宇野 隆夫</ref>、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた<ref>{{Cite web |url=http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/131.html |title=金関の渡来説 |publisher=九州大学総合研究博物館 |accessdate=2013-4-19}}</ref>。その後の調査で、前述のように中国[[山東省]]の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、[[埴原和郎]]は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいた[[ツングース系民族|ツングース系]]の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を[[1991年]]に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた<ref>{{Cite web |url=http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/161.html |title=今日の渡来説 |publisher=九州大学総合研究博物館 |accessdate=2013-4-19}}</ref>。
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