「吉田拓郎」の版間の差分

**拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『[[ザ・ベストテン]]』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいという[[コンセプト]]で始まった番組であったが<ref>ザ・ベストテン、[[山田修爾]]、[[ソニー・マガジンズ]]、2008年、pp.188-189</ref>、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ<ref>テレビだョ!全員集合、長谷正人/太田省一、[[青弓社]]、2007年 p.75、[[週刊朝日]]、1978年12月29日号、p.37</ref>。
** [[相澤秀禎]]は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている<ref>アイドル工房―夢のつむぎ方―、1995年、[[相澤秀禎]]、[[スコラ]]、pp.121-122</ref>。
** 1986年に『[[メリー・クリスマス・ショー]]』への出演オファーがなされたが、拓郎は「司会だったらやってやるよ」の一点張りだったため実現しなかった。[[桑田佳祐]]は拓郎に歌での出演を希望していた<ref>週刊文春 2020年2月13日号 P115</ref>。
** [[1996年]]から音楽バラエティー番組『[[LOVE LOVEあいしてる]]』にレギュラー出演し、[[ジャニーズ事務所]]の[[アイドル]]・[[KinKi Kids]]と共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった{{Sfn|田家秀樹|2001|pp=164-165}}。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げている{{Sfn|田家秀樹|2001|pp=164-165}}。
 
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