「竹本信弘」の版間の差分

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'''竹本 信弘'''(たけもと のぶひろ、[[1940年]][[2月24日]] - )は[[日本の新左翼]]テロリスト、元活動家。かつては'''滝田修'''(たきたおさむ)というペンネームを使用していた。1969年、京大パルチザンを結成。1971年の埼玉県[[朝霞駐屯地]]での自衛官殺害事件の共謀共同正犯として指名手配され、10年間逃亡の後、逮捕された。現在、有限会社メディアコム代表<ref>[http://archive.is/20121225205729/meigetu.wordpress.com/about/ 執筆陣 « 明月堂書店ブログ 月刊極北]</ref>
 
1969年、[[京大パルチザン]]を結成。1971年の[[埼玉県]][[朝霞駐屯地]]での自衛官殺害事件の共謀共同正犯として指名手配され、10年間逃亡の後、逮捕された。現在、有限会社メディアコム代表<ref>[http://archive.is/20121225205729/meigetu.wordpress.com/about/ 執筆陣 « 明月堂書店ブログ 月刊極北]</ref>。
 
== 人物 ==
=== 生い立ち ===
[[京都府]][[京都市]]で[[京都教育大学]][[名誉教授]][[竹本正信]]の次男、三人兄弟の末っ子として生まれる<ref name="fukui">[[福井惇]]『一九七〇年の狂気―滝田修と[[菊井良治]]』p.27</ref>。[[1958年]]、[[京都府立洛北高等学校・附属中学校|京都府立洛北高等学校]]卒業。[[1960年]]、[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|京都大学経済学部]]入学<ref name="fukui" />。1964年に京都大学大学院修士課程に進み、ドイツ社会思想史(特に[[ローザ・ルクセンブルク]])を専攻する。大学院時代、『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』[[1965年]]11月号に、[[白土三平]]の[[カムイ伝]][[マルクス]]研究者としての「私の問題意識に極めて鋭く迫る」ものとして礼賛する投稿を行っている<ref>[http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2008/03/post-df6b.html 初期「ガロ」の読者感想の掘り起こし:夏目房之介の「で?」]</ref>。
 
==== 過激派の教祖へ ====
[[1967年]]助手試験に合格。博士課程を中退し、京都大学経済学部助手になる。同年、「ローザ・ルクセンブルクの社会主義運動論」を雑誌『[[思想]]』([[岩波書店]])に発表して、学界の注目を集める。
 
[[1968年]]、若手研究者として将来を嘱望される一方、[[京大闘争]]が始まると、助手の立場から参加。1968年から[[アルバイト]]として[[難波予備校]]<ref>『パルチザン前史』01:37:28。</ref>講師を兼任(~1972年)。この頃から「滝田修」のペンネームで積極的に論文を執筆するようになる。1969年、[[土本典昭]]のドキュメンタリー映画『パルチザン前史』に出演し、[[過激派]]の教組と目され、「日本の[[チェ・ゲバラ|ゲバラ]]」と呼ばれるに至る。[[1970年]]の[[三島由紀夫]]自決([[三島事件]])に際しては「われわれ[[左翼]]の思想的敗退だ。あそこまでからだをはる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転した」<ref name="asahi">[[朝日新聞]]、1970年11月26日。</ref>「70年代の闘争をやり抜くためには、[[新左翼]]の側にも何人もの"三島"をつくらねばならん」<ref name="asahi" />と発言し、パルチザンを組織して闘争を行うことを主張。当時、『[[週刊朝日]]』誌上で[[大橋巨泉]]と対談したこともある<ref>『週刊朝日』1971年4月4日号 「巨泉の真言勝負」</ref>。その[[暴力革命]]論は全国の[[全共闘]]系学生に心情的影響を与えた。竹本に影響を受けた学生の中には同大学出身の[[奥平剛士]]や[[安田安之]]らがおり、2人は[[1972年]]に[[テルアビブ空港乱射事件]]を起こした。
 
==== 「潜行」生活 ====
[[1971年]]8月に起こった[[朝霞自衛官殺害事件]]の[[首謀者]]と目され、[[1972年]][[1月9日]]に[[指名手配]]されると「一方的に着せられた身に覚えのない濡れ衣を官憲に対して自ら晴らさねばならない義務はない」<ref>[[たけもとのぶひろ]]『泪の旅人』p.236</ref>との声明を出し、[[大阪府]][[高槻市]]の自宅に妻子を残したまま、大阪府[[寝屋川市]]の愛人との隠れ家から逃亡し潜行。1977年6月、京都大学評議会は竹本の分限免職処分を決定した(竹本処分)。1980年6月、手配容疑の[[強盗罪#強盗予備罪に関する論点|強盗予備罪]]の[[公訴時効]]が成立する直前、新たに[[強盗致死傷罪|強盗致死]]の逮捕状が出たため、公訴時効はさらに12年延長された。
 
竹本は潜行中の1974年6月19日、滝田修名義で「只今潜行中・中間報告」を[[序章社]]から出版<ref>「潜行の記」を出版『朝日新聞』昭和44年(1974年)6月20日朝刊、13版、19面</ref>。この間、元京都府学連執行委員である友人の自宅([[奈良県]][[大和高田市]])、映画監督の[[土本典昭]]の実弟の自宅([[東京都]][[世田谷区]])、[[弁護士]]の[[青木英五郎]]の甥の自宅([[東京都]][[新宿区]])、画家の[[丸木位里]]の自宅([[埼玉県]][[東松山市]])、[[被差別部落]]の詩人の[[植松安太郎]](筆名・百合崎迅<ref>『週刊サンケイ』1979年4月19日号「私は過激派教組滝田修をかくまってきた」</ref>)の自宅([[埼玉県]][[深谷市]])などを匿われて転々とし、「山崎篤」の偽名を用いて[[モテル]]での雑役夫や家庭教師、蕎麦屋の店員、プレス屋、植木屋、庭石屋、土建屋、梱包屋、弱電メーカー(下請け)の工員、シャッター会社(下請け)の工員、長距離トラックの助手などの仕事を転々として糧を得る一方で、流れ者への警戒心を封じるために[[知的障害者]]を装ったこともある<ref>たけもとのぶひろ『泪の旅人』p.83</ref>。やがて[[栃木県]][[足利市]]のプレス工場で旋盤工として働き出したが作業中の事故で右手人差し指と中指を切断。この切断障害が[[警察]]から目印とされるようになる。その後、[[群馬県]][[大泉町]]や群馬県[[館林市]]、[[東京都]][[世田谷区]]、[[川崎市]][[多摩区]]と移り住み、画家[[中村正義 (日本画家)|中村正義]]、画家[[山下菊二]]に匿われていたが、[[1982年]][[8月8日]]午後4時55分、[[川崎市]][[多摩区]][[枡形 (川崎市)|枡形]]の[[生田緑地]]内[[日本民家園]]で愛人と共に散歩しているところを[[埼玉県警]]に[[逮捕]]された。10年7ヶ月の逃亡生活であった。
 
===== 「潜行」の軌跡<ref>穂坂久仁雄『潜行』p.178-179</ref> =====
 
== 著書 ==
*「ローザ・ルクセンブルク論集」([[情況出版]]、1971年)共著
*「ならずもの暴力宣言―滝田修評論集」([[芳賀書店]]、1971年)
*「只今潜行中・中間報告」([[序章社]]、1974年)
*「昔の名前で出ています―滝田修評論集」([[新泉社]]、1982年)
*「わが潜行四〇〇〇日」([[三一書房]]、1983年)
*「たけもとのぶひろ全集」全4巻([[イサド同盟]]、1985年)
*「滝田修解体」([[世界文化社]]、1989年)たけもとのぶひろ名義
*「泪の旅人─ならず者出獄後記」([[明月堂]]、2001年)たけもとのぶひろ名義
 
== 映画出演 ==