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=== ナチ政権の副首相時代 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-15348, Reichskabinett Adolf Hitler.jpg|right|thumb|250px|1933年1月30日、ヒトラー内閣閣僚とともに。ヒトラーと話している人物がパーペン。]]
1933年1月30日11時15分頃に[[ヒトラー内閣]]が成立した<ref name="阿部213"/>。パーペンは副首相プロイセン州首相に就任した<ref name="阿部213"/>。ナチ党からの入閣は首相ヒトラー、内相[[ヴィルヘルム・フリック]]、無任所相・プロイセン州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]の三人のみであり、その他の閣僚はヒンデンブルク大統領自らが選んだ国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]を除き、パーペンが選んだ<ref name="モムゼン477">[[#モムゼン|モムゼン、p.477]]</ref>。パーペンは自分のヒンデンブルクへの影響力でもってヒトラーを操り人形できるという幻想に浸っていた<ref name="モムゼン478">[[#モムゼン|モムゼン、p.478]]</ref>。ヒトラーは2月1日の国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」を宣言して第一次[[四カ年計画]]を発表した。しかし大の反共主義者であったパーペンは「あまりに[[スターリン主義]]的用語が多い」とヒトラーに抗議した<ref name="モムゼン481">[[#モムゼン|モムゼン、p.481]]</ref>。2月6日にパーペンとマイスナーの助言によって明らかに違憲な大統領緊急命令「プロイセンにおける正常な統治関係確立のための緊急令」が発令された。パーペンは自がプロイセンで独裁権力を握るつもりで発令させたのだが、結局内相だった[[ヘルマン・ゲーリング]]がプロイセンにおいて巨大な権限を握ってパーペンは州首相の職も譲り渡すこととなった<ref name="阿部217">[[#阿部|阿部、p.217]]</ref><ref name="トーランド上337">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.337]]</ref><ref name="モムゼン482">[[#モムゼン|モムゼン、p.482]]</ref>。
 
ヒトラーの首相就任の二日後の2月1日に国会は解散され、選挙戦に突入した<ref name="阿部215">[[#阿部|阿部、p.215]]</ref>。2月11日にパーペンは国家人民党と鉄兜団に統合を薦め、「黒・白・赤」を結成させた<ref name="モムゼン482"/>。3月5日に総選挙が行われたが、ナチ党が得票率43.9%を得て、288議席を獲得した<ref name="阿部222">[[#阿部|阿部、p.222]]</ref>。この選挙で、自身も「黒・白・赤」から出馬して国会議員に初当選した。
 
3月23日にヒトラー内閣に憲法を除く全ての法律を自由に公布できる権限を認める[[全権委任法]]が可決された<ref name="阿部226">[[#阿部|阿部、p.226]]</ref>。パーペンは政府を国会から独立させるために全権委任法を可決させることには当初から賛成だった<ref name="モムゼン489">[[#モムゼン|モムゼン、p.489]]</ref>。しかしこの全権委任法によって大統領の存在も形骸化し、大統領の信任を背景にしたパーペンの権力も形骸化することになった。パーペンはそこまで考えが及ばなかったようである<ref name="モムゼン489"/>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R24391, Konkordatsunterzeichnung in Rom.jpg|left|thumb|250px|1933年7月20日、[[ライヒスコンコルダート]]の締結が合意された[[バチカン]]の[[ローマ教皇庁]]。左から[[ルートヴィヒ・カース]]、パーペン、一人おいて[[ピウス12世 (ローマ教皇)|エウジェニオ・パチェッリ(後の教皇ピウス12世)]]{{仮リンク|枢機卿国務長官|en|Cardinal Secretary of State}}(中央)。]]