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|写真のコメント = 1959年1月
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[茨城県]][[下館市]](現
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1928|2|11|no}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1928|2|11|2010|5|5}}
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|最終出場 = [[1963年]][[10月13日]]
|経歴 =
* [[茨城県立下館第一高等学校・附属中学校|旧制茨城県立下館商業学校]]
* [[日本大学硬式野球部|日本大学]](中退)
* [[阪神タイガース|大阪タイガース]] (1949 - 1958)
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|選出方法 = 競技者表彰
}}
'''田宮 謙次郎'''(たみや けんじろう、[[1928年]][[2月11日]] - [[2010年]][[5月5日]])は、[[茨城県]][[下館市]](現
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[茨城県立下館第一高等学校・附属中学校|旧制下館商業]]卒業後に[[日本大学硬式野球部|日本大学]]に進学。[[東都大学野球連盟|東都大学野球リーグ]]では投打兼任で活躍。優勝には届かなかったが、[[1947年]]秋季リーグでは打率.427で首位打者に輝く。同季の[[中央大学硬式野球部|中大]]との1回戦では、児玉光彦との継投で[[ノーヒットノーラン]]を達成した。[[根本陸夫]]とバッテリーを組む。柔道にも精を出し、二段の腕前だった。[[1948年]]のシーズン終了後に[[阪神タイガース|大阪タイガース]]が大学中退・プロ入りを勧めて交渉を行い、最終的に3年契約を結んだが、阪神との交渉を終えて実家に戻ると翌日には[[読売ジャイアンツ]]の関係者が入団交渉に来るとの電報が届けられていた。田宮は茨城出身ということもあり巨人ファンで、[[三原脩]]監督自ら交渉に訪れた巨人側も「まだ仮契約の段階。撤回できる」と熱心に誘ったが、田宮は「最初に声をかけてくれたから」とそのまま大阪に入団した。
=== 阪神時代 ===
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=== 引退後 ===
引退後は[[1964年]]から[[1967年]]まで[[TBSテレビ|TBS]][[野球解説者|解説者]]を経て、[[1968年]]から[[1969年]]まで[[中日ドラゴンズ]]一軍打撃コーチ、[[1970年]]からは[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]ヘッドコーチに就任。[[松木謙治郎]]の後を受け、同年途中から監督に就任するも全てBクラスに終わり、日拓ホームとなった1973年に前期限りで解任された。当時の采配は[[張本勲]]の著書で「
その後は[[1974年]]から[[1987年]]までTBS解説者の活動を再開したほか、自費で米国へ渡ってコーチ留学をした。[[1984年]]からは阪神のOB会会長を18年間務め、歯に衣着せぬ物言いで名物会長として親しまれた。一方で[[1999年]]に監督に就任した[[野村克也]]とは激しく対立し、野村がOB会総会を欠席する事態にまで発展した。[[1988年]]には[[村山実]]の要請で古巣・阪神のヘッドコーチに就任するが、[[5月6日]]に試合前休養となり、フロント入りした<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_sports/news/131130/wsp13113009500002-n3.htm 岡崎球団社長 辞任で田宮ヘッドフロントへ転出] 産経新聞、2013年11月30日</ref>。[[1994年]]から[[1995年]]までは[[中華職業棒球聯盟|台湾プロ野球]]の[[味全ドラゴンズ]]監督を2年間務めた後、[[2000年]]には郷里・下館市議会議員に当選(1期で引退)。[[2002年]][[1月]]には市民栄誉賞を受賞し、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りも果たした。自身の名を冠した野球大会の主催や中学硬式クラブチームの顧問など、長らく地元のアマチュア野球普及に力を尽くし、同郷の後輩の[[井川慶]]の後見人にもなっていた。
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* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]敢闘賞:1回 ([[1960年の日本シリーズ|1960年]])
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:1回 ([[1961年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1961年]] 第2戦)
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* [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り (競技者表彰:2002年)
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