「足利義政」の版間の差分

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政久が死去した後は弟の[[畠山政長|政長]]が勝元に擁立され、宗全も復帰したため、長禄4年([[1460年]])9月に畠山家家督を義就から政長に交代させた。義就は[[河内国]][[嶽山城]]に逃れて2年以上も籠城し、政長との戦闘を繰り広げた。このため戦乱を逃れた流民が大量に京都に流入した。
しかし禄4年ごろから[[飢饉]]や災害が相次いており、特に[[寛正]]2年([[1461年]])の[[大飢饉]]は京都にも大きな被害をもたらしていた。流入した流民の多くは飢え、一説では2ヶ月で8万2千の餓死者を出し{{sfn|桜井英治|p=293}}、[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]の流れが死骸のために止まるほどであったとされる。同年春に[[後花園天皇]]が漢詩で義政に「満城紅緑為誰肥」と訓戒する詩を送っているが、[[尋尊]]が「公武御成敗諸事御正体なし」と批判するように、当時の世上では[[朝廷]]も含めて批判の対象となっていた{{sfn|桜井英治|p=293}}。
 
=== 文正の政変 ===
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