「ハールーン・アッ=ラシード」の版間の差分

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[[ファイル:Harun-Charlemagne.jpg|thumb|right|270px|ハールーン・アッ=ラシードがカール大帝の派遣団と会う場面]]
[[ファイル:Yahyâ_ibn_Mahmûd_al-Wâsitî_005.jpg|thumb|right|250px|ハールーン・アッ=ラシードの治世中に、バグダードの街は繁栄の道を進み始めた]]
'''ハールーン・アッ=ラシード'''({{lang-ar|هارون الرشيد}} {{lang|ar-Latn|Hārūn al-Rashīd}}, [[763年]][[3月17日]] - [[809年]][[3月24日]])は、[[アッバース朝]]第5代[[カリフ]](在位:[[786年]] - 809年)。'''ハールーン・アッラシード'''とも表記する<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/や定冠詞抜きのハールーン・アッラシード-117528 |title = ブリともカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コナ表記される。ファースネームのハールーク |accessdate = 2018-01-09 }}</ref>はイスラーにおける預言者の名前で、聖書のアロン(アーロン)に相当する
 
クンヤ(「○○の父」形式の通称・尊称)は当初アブー・ムーサーで、その後アブー・ジャアファルになったとされている。なお正妃ズバイダのクンヤは実子の名前を用いたウンム・アル=アミーン(アル=アミーンの母)よりも祖父の名前にちなんだウンム・ジャファル(ジャアファルの母)の方が広く知られている。
即位にあたっての名は'''アッ=ラシード・ビッ=ラー'''・アブー・ジャアファル・ハールーン({{lang|ar-Latn|'''al-Rashīd bi-Allāh''' Abū Jaʻfar Hārūn}})であるが、古くからこのハールーン・アッ=ラシードの通称で親しまれてきた。その治世はアッバース朝の最盛期にあたり、『'''[[千夜一夜物語]]'''』などで全盛期のアッバース朝に君臨した'''偉大なる帝王'''として語り継がれている。
 
即位にあたっての名は'''アッ=ラシード・ビッラー'''・アブー・ジャアファル・ハールーン({{lang|ar-Latn|'''al-Rashīd bi-Allāhllāh''' Abū Jaʻfar Hārūn}})で、意味は「アッラーにより正しき道に導かれし者 ジャファルの父 ハールーン」である。しかしな古くからビッラーこのハールーン・アッ=ラシードの通称で親しまれてきた。その治世はアッバース朝の最盛期にあたり、『'''[[千夜一夜物語]]'''』などで全盛期のアッバース朝に君臨した'''偉大なる帝王'''として語り継がれている
 
その治世はアッバース朝の最盛期にあたり、『'''[[千夜一夜物語]]'''』などで全盛期のアッバース朝に君臨した'''偉大なる帝王'''として語り継がれている。
 
== 解説 ==