「金子重之輔」の版間の差分

同年、[[熊本藩]]士・[[永島三平]]を伝にして[[吉田松陰]]と出会いその弟子となる。嘉永7年([[1854年]])、[[アメリカ合衆国]]の[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。[[鳥山確斎]]の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。
 
[[日米和親条約]]が締結されると松陰と共に[[下田市|下田]]へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。[[伝馬町牢屋敷]]に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によって[[萩市|萩]]へ檻送され安政2年(1855年)、[[士分]]以下の者が入る[[岩倉獄]]で病没した。享年25(満23歳没)。
 
金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。
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