「東京地学協会」の版間の差分

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{{参照方法|date=2016年11月28日 (月) 05:34 (UTC)}}
{{Infobox 組織
|name = 公益社団法人東京地学協会 <br />Tokyo Geographical Society
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== 概要 ==
会員数約800名(1998年)。地学の専門家によって構成されている。地質鉱物学約60%、[[地理学]]約30%、[[地球物理学]]その他約10%で構成され、地学における専門分野の連携を促し、その総合的な発展・普及を推進することを目的としている。学術雑誌『'''地学雑誌'''』を年6冊刊行している。多くの学会のような研究発表大会は開催されていない。地学の普及のために、一般向けの学術講演会、見学会、地学を楽しむ会、毎月の講演懇談会などが開催するほか、書籍の編集発行や、地学に関する調査研究・会議などへの助成、東京地学協会メダル等による顕彰<ref>{{Cite web|url=http://www.geog.or.jp/awards.html|title=助成・表彰|accessdate=2020/-05/-03|publisher=東京地学協会}}</ref>を行っている。
 
2012年4月1日に[[公益社団法人]]に移行。
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== 活動 ==
=== 見学会 ===
* 2010年度:「国分寺崖線(ハケ)」(日帰り)[[高村弘毅]]・[[河野忠]]・[[小玉浩]]
* 2009年度:「青梅の段丘と上総層群」(日帰り)[[植木岳雪]]
* 2004年度:「火山の脅威を知る 支笏火山・有珠火山 -過去及び現在の噴火-」[[中村有吾]]・[[岡田弘]]
* 2003年度:「松本平と伊那谷周辺の鮮新世-更新世テフラと堆積物から中部山岳と盆地の形成過程をさぐる」[[町田洋_(火山学者)|町田 洋]]・[[松島信幸]]・[[寺平宏]]・[[小泉明裕]]・[[久保純子]]
* 2002年:「鬼怒川地溝北部の地形発達-那須・高原火山および関谷断層の活動との関連で-」 [[小池一之]]・[[鈴木毅彦]]
* 2001年:「伊豆大島の噴火史と1986年噴火をふりかえる」[[鈴木毅彦]]
* 2000年:「国土地理院と地質調査所見学」 [[中尾征三]](文部省)・[[野上道男]](日本大学)
* 1999年:「浅間山の災害と軽井沢・佐久盆地」
* 1998年:「諏訪および伊那周辺の活断層(糸魚川静岡構造線、中央構造線、中央アルプス東縁の活断層)、中央構造線博物館、伊那谷テフラと段丘など」[[松島信幸]]・[[寺平宏]]
* 1997年:「箱根火山、大磯丘陵 大湧谷自然科学館、カルデラ形成とその後の活動、生命の星地球博物館、温泉地学研究所、大磯丘陵の箱根テフラ」[[浜田隆士]]・[[袴田和夫]]・[[町田洋_(火山学者)|町田 洋]]
* 1996年:「甲府盆地」活断層、韮崎岩屑なだれ、河床の急激な洗掘、宝石博物館など」[[今泉俊文]](山梨大)・[[砂川一郎]](山梨県宝石美術専門学校)
 
=== 地学を楽しむ会 ===
* 2003年:第5回「東京低地の地形と歴史」案内:久保純子
* 2001年:第4回「秩父盆地の地形と火山灰をみる」案内:鈴木毅彦
* 2000年:第3回「新宿御苑」案内:三上岳彦,木村圭司
* 1999年:第2回「箱根・北伊豆地域の地震と断層を考える」案内:笠原順三、松島義章、山崎晴雄、小林 淳、町田 洋
* 第1回「伊能図から現代の地図まで(東京地学協会と周辺、水準原点から佐原市の伊能忠敬記念館~国土地理院の[[地図と測量の科学館]])」
 
== 歴史 ==
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東京地学協会は、渡辺洪基が[[ウィーン]]において会員だったGeographische Gesellschaft、鍋島直大、長岡護美がロンドンにおいて会員だったGeographical Societyを範としているのに、geographyの訳語をそのまま用いて地理学協会と名付けず「東京地学協会」と名付けている。これには2つの理由が考えられている。
 
1つは、当時、明治10-2010-20年代、地理という言葉は中国伝来の国郡誌(方誌)を指していたと思われることである。これは、文献を模索することで地方国軍の沿革を調べ、一定の基準によって現状を記載することである。この史官的思想によって、日本では明治初期から[[太政官]]地誌課あるいは[[内務省 (日本)|内務省]]地理局において、『[[皇国地誌]]』の編集を全国的に進行させていた。これが当時の地理のもつ固定した意味であった。
 
もう1つは、西洋伝来のゼオガラヒーの意味である。この言葉は、幕末には、五大洲の形状、人種、各国の[[政体]]・都府・[[軍備]]等を主とする諸国誌を意味し、やがて[[慶応]]から明治初期にかけては、国尽くし・往来もの風の世界知識を意味し、さらに[[学制]]発布に伴い[[文部省]]や師範学校に取り入れられて、教育のための重要な素材として用いられたものを意味した。このような意味内容で解釈された地理以外のものを渡辺洪基らがヨーロッパで見て、それを日本でも必要だと考え、それを日本語で表すには、従来の地理では誤解を招く可能性があったため、協会の創設者たちはGeographical Societyを地理学協会とせず、地学協会としたのである。なぜ、従来の地理では誤解を招く可能性があったのかと言うと、当時の人々にとって地理は[[江戸時代]]以来の、土地・国状の記載を意味していたからである。当時の人々は、Geology(地質学)を、土地のことを研究する学問と解釈し、それを地学と呼んだ。[[小藤文次郎]]は、元来、地学は地球学の意味であったが、東京地学協会の人々は、地球学を省略して地学とし、その名称が類似しているため、地理学Geo-graphyをErdkunde(地学)としたと述べている。現在、日本で地学はEarth Scienceと訳され、Geographyは地理学であるのに、地学雑誌の英名が「'''journal of Geography'''」となっている理由もここにある。
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== 外部リンク ==
* [http://www.geog.or.jp/ 公益社団法人 東京地学協会]
 
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:とうきようちかくきようかい}}
[[Category:地理学系学会]]