「織部焼」の版間の差分

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== 概要 ==
[[千利休]]の弟子であった[[大名]][[茶人]]、[[古田重然|古田織部]]の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。当時の[[南蛮貿易]]で中国南方からもたらされ、茶人たちに珍重された[[交趾焼]]([[華南三彩]])を元にしたと考えられる。大量生産のため、陶工[[加藤景延]]が[[唐津]]から[[連房式登窯]]を導入したと伝えられる。代表的な窯としては、[[元屋敷陶器窯跡|元屋敷窯]]が挙げられる。開窯直後の慶長年間が最盛期で、優品の多くはこの時期に造られた。織部焼には京風の[[意匠]]が用いられたことや、[[1989年]]京都[[三条]]の中之町から大量の美濃焼が発掘されたことから、ここから美濃へ発注されていたことが想定される。当時の三条界隈には「唐物屋」と呼ばれる、陶磁器や絵画、染織を売る道具屋が軒を連ねており、織部焼もここで売られていた。織部焼には、しばしば[[唐津焼]]と共通した文様が見られるが、これは唐津にも唐物屋から発注されていたことから起きる現象であろう。
 
また、織部茶入というものが大量に伝わっており、美濃地方の他に九州の[[薩摩焼]]・[[高取焼]]などでも焼かれている。