「千田貞暁」の版間の差分

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しかし千田はもとより[[師団]]のある広島では、宇品港は一地方の利便にのみに止まらず、広く陸海両軍の兵事にも益を与えるべき事業だと考えており、こうした千田の先見の明は[[1894年]]から[[1895年]]の[[日清戦争]]では近代港湾があり、鉄道が整備され、物資の蓄積に便がある大陸に近い最西端の都市であるとして広島に[[大本営]]と[[帝国議会]]が設置され臨時の[[首都]]となる事で証明された。更に[[1904年]]から[[1905年]]の[[日露戦争]]では引き続き国内の重要拠点として港湾労働者や荷役や輸送、飲食店などに従事するものに雇用を生み官民ともに活況を呈した。また軍港としての役割のみならず、明治後期や大正にかけての時期には大陸航路を初めとして一般港としても賑わうようになった。宇品中央公園にある[[文部省唱歌]]「[[みなと (唱歌)|港]]」の[[歌碑]]はこのころの宇品の賑わいを歌ったものである。
 
以上のような経緯により、千田は近代広島の発展に寄与したとして再評価され、[[1898年]]には[[男爵]]を授爵し[[広島市議会|広島市会]]から感謝状を送られた。死後、[[1908年]]に宇品築港記念碑、[[1915年]]に本人の銅像、[[1925年]]には[[千田廟社]] ([[千田神社]])が立てられた。これらは併せて[[千田廟公園]]として整備され、今に至るまで千田の功績を後世に伝えている。また千田の功績をたたえ、[[広島市]][[国泰寺町界隈 (広島市中区)|国泰寺村]]の一部が[[千田町 (広島市中区)|千田町]]と改称され現在に至っている。
 
== 家族 ==