「衛臻」の版間の差分

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衛臻は、孫権の侵攻は諸葛亮に同調するポーズをとっただけで、実際は形勢を傍観しているだけであること、また合肥は堅城であることを理由に、親征せず軍隊の費用を節約すべきと述べた。果たして曹叡が尋陽まで赴いたところで、孫権は引き揚げた。
 
また後に[[カン丘倹|毌丘倹]]が上奏し、[[遼東]]の[[公孫淵]]を征伐することの許可を求めてきた。衛臻は毌丘倹の計画が無謀であるとして反対した。毌丘倹は兵を動かすことを許されたが、やはり上手くいかなかった([[遼隧の戦い]])。
 
高齢となり[[司空]]に昇進し、さらに[[司徒]]となった。[[正始]]年間には長垣侯に封じられた。千戸の領邑を有し、一子も列侯された。ある時[[曹爽]]は[[夏侯玄]]を使いに送り、衛臻に尚書令を兼務させたいと伝えさせ、また、弟に娘を嫁に嫁がせたいとも申し入れたが、いずれも拒絶された。