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父が病死した後、12歳で陽里亭侯を継いだ。当初は[[曹爽]]・[[何晏]]に採り立てられたが、曹爽達の失脚後に一時免職となった。復職後は[[司馬氏]]の腹心として活動した。
 
[[正元 (魏)|正元]]2年([[255年]])、[[カン丘倹|毌丘倹]]・[[文欽]]が反乱を起こした時には参軍として出征し([[寿春三叛#毌丘倹・文欽の乱|毌丘倹・文欽の乱]])、[[司馬師]]が急死した後の軍の指揮を執った。[[甘露 (魏)|甘露]]2年([[257年]])には、[[司馬昭]]の命令で[[諸葛誕]]の様子を窺うために使者として赴き、諸葛誕に叛意がある事を司馬昭に報告している。
 
皇帝[[曹髦]]が司馬氏から実権を奪い返すために兵を挙げた際は、この事変の収拾を意図した司馬昭の指示を受け、乱の鎮圧に赴いた。このとき、賈充は部下の[[成済]]に命じて曹髦を殺害させた。[[陳泰]]が、賈充を皇帝殺害の罪で極刑にすべきと司馬昭に訴えたというが、結局は実行犯の成済が罪を被せられ処刑されただけで、賈充は何の罪にも問われなかった。[[景元]]5年([[264年]])、[[蜀漢の滅亡|蜀漢征伐]]の後に[[鍾会]]が反旗独立を謀ると、賈充は司馬昭の命令で討伐軍の指揮を執り[[関中]]に赴いたが、途中で鍾会の死が伝わってきたため沙汰止みとなった。