「ペンシルロケット」の版間の差分

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== 概要 ==
[[太平洋戦争]]後の[[日本]]における初の[[実験]]用ロケットである。[[1954年]]に年間予算560万円で開発が開始された。予算の制約から超小型の[[火薬]]式ロケットを実験装置として使用し、[[鉛筆]](ペンシル)のようであるところからこの愛称が生まれた。<!--これについて実験を主導した[[糸川英夫]]は、[[アメリカ合衆国|米]][[ソビエト連邦|ソ]]の大型の実験機を縮小して実用化するという発想から、小さな物を巨大化して実用にするという「'''逆転の発想'''」を用いたものだと後に説明している。--><!--『逆転の発想』が極めて有名なためこういう説明がなされるのだと思うが、米ソの宇宙開発が鹵獲したV2の小型化から始まったことを指しているのだとすれば、V2は実用化されたロケットであって「実験(機)」ではない-->
 
合計150機あまりが発射された。ロケットとしては非常に小さく、また、能力も実用に耐えうペイロードを載せたりできるような代物ではなかったものの、単体でロケットシステムとして成立しており、ノーズコーンや[[尾翼]]の材質、形状、重心の変化等による空力特性の変化による分散の影響などが調べられた。後の[[カッパロケット]]や[[ラムダロケット]]の開発時における[[フラッター現象]]の解析においては、これらのデータが有効に活用されたという。
[[国際地球観測年]](IGY)において高層大気観測を行うという方針が[[1955年]]に決定されたため、AVSA班の方針もロケット旅客機から[[観測ロケット]]へ変更された。
 
当初はロケットを応用すべき航空宇宙的な研究対象として、成層圏上層(大気界面)の超高速飛行などを検討していた。「宇宙研物語」によれば、そのような上層であれば希薄大気であるから温度上昇の問題も抑えられ、(対流圏の現象である)気象などの影響も少なく、東京~サンフランシスコ間なら4時間ぐらいで安全に飛行できる、といったものが「糸川の高速飛翔体構想」だった、と述べられている<ref>https://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter01/01/03.shtml</ref>。これが、糸川が新聞の取材に応じて語ったことで世に出た記事は、「ロケット旅客機」「20分で太平洋横断」といった見出しが踊るもので、実際に製作した秋葉鐐二郎によれば「ボール紙で作ったロケット」<ref>https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.71.943</ref>が「試作した国産ロケット一号」というキャプション付きで紹介されるといったものだった。このため(後の[[X-30 (宇宙船)|NASP]]のような)スペースプレーンを目指していた、という印象が広まっている。しかしそのように広まったことで、文部省関係者などの目にとまって後の[[国際地球観測年]]に向けた宇宙科学との連携のきっかけになり<ref>https://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter01/01/04.shtml</ref>、日本の固体ロケット開発をおおきく進めることにつながった。
合計150機あまりが発射された。ロケットとしては非常に小さく、また、能力も実用に耐えうるような代物ではなかったものの、単体でロケットシステムとして成立しており、ノーズコーンや[[尾翼]]の材質、形状、重心の変化等による空力特性の変化による分散の影響などが調べられた。後の[[カッパロケット]]や[[ラムダロケット]]の開発時における[[フラッター現象]]の解析においては、これらのデータが有効に活用されたという。
 
== 国分寺実験 ==