「ファショダ事件」の版間の差分

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[[ファイル:Africa1898.png|right|200px|thumb|ファショダ事件(1898年)当時のアフリカ。南北に伸びるイギリスの植民地(黄色)と東西に伸びるフランスの植民地(桃色)の拡大政策が現在のスーダンで衝突した]]
[[ファイル:Kodok locator map.svg|right|200px|thumb|ファショダ(現在の{{仮リンク|コドク|en|Kodok}})と首都ハルツーム、ナイル川の位置関係(現在は[[南スーダン]]に位置する)]]
'''ファショダ事件'''(ファショダじけん)は、[[1898年]]、[[アフリカ分割]]の過程で[[イギリス]]と[[フランス]]が軍事衝突しかけた[[事件]]である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。
 
また、[[紅海]]沿岸の[[ジブチ]](仏領ソマリランド)を領有し、東部アフリカに橋頭保を築いた。
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フランスの外相[[テオフィル・デルカッセ]]はこの場面でイギリスとの軍事衝突を選ぶことは得策ではないと考えた。当時急速に勢力を拡大していたドイツとの衝突に備えてイギリスとの関係を悪化させることは避けるべきであったし、また[[ドレフュス事件]]をはじめとする不祥事で当時のフランスの軍部は国民の信頼を失っており、遠くスーダンで戦争を遂行することは世論の賛同を得られないと思われたためである。結局フランス軍が譲歩し、翌1899年ファショダから撤退した。
 
本事件は帝国主義の時代において英仏両国の関係が最も緊張した出来事であり、本事件以後、英仏関係は融和に向かうことになる。先述のとおり[[ドイツ帝国]]の勢力拡大に直面した両国は、アフリカ大陸での軍事衝突を行う余力がなくなり、統治に終始することとなる。その後、[[第二次世界大戦]]終結後に英仏を含むヨーロッパの植民地保有国が影響力を失い始め、各地でアフリカ諸国が独立して[[アフリカの年]]と呼ばれる1960年までの間双方が軍事衝突を避けながら統治を続けていくこととなる。
 
[[第二次世界大戦]]終結後に英仏を含むヨーロッパの植民地保有国が影響力を失い始め、各地でアフリカ諸国が独立して[[アフリカの年]]と呼ばれる1960年までの間、
 
== 参考文献 ==