「中島敦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎横浜での教員時代: リンク切れ出典のURL更新と、記述場所の移転。→‎作品集: 全集の受賞に出典を補填し、『敦 山月記・名人伝』に注釈で追記。など
72行目:
中島敦は当時の就職難に苦しみ、同年秋に[[朝日新聞社]]の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ち、また叔父の[[満州国]]高級官僚の[[中島比多吉]]に就職の斡旋を依頼するなどしていた{{Sfn|勝又|2004|pp=27-29}}。同級生38名中、順調に就職が決まった者は3名だけだった<ref name="guchi">{{Harvnb|田鍋|1989|pp=208-209}}</ref><ref name="nenpu-chi"/>。結局、[[1933年]]4月、祖父の門下生だった田沼勝之助が理事を務める横浜高等女学校(現・[[横浜学園高等学校]])での教員の職を得て横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]で単身暮らしとなった{{Sfn|小谷|2019|p=31}}<ref name="nenpu-chi"/>。担当科目は国語・英語(および、のちにこれに加えて歴史・地理)であり、週23時間の授業を受け持ったという{{Sfn|勝又|2004|pp=29-31}}。初任給は60円だった<ref name="nenpu-chi"/>。
 
女学校教員となったこの年の12月11日には橋本タカと結婚(正式入籍)した{{Sfn|小谷|2019|p=31}}<ref name="nenpu-chi"/>。タカは4月に郷里の[[愛知県]][[碧海郡]]で産んだ長男・桓(たけし)を連れて11月ごろに上京し、東京市[[杉並区]]の佐々木方に下宿した<ref name="nenpu-chi"/>。教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒からもかなりの人気があった{{Sfn|勝又|2004|pp=29-31}}。教員時代は、[[山岳部]]生徒の引率で、[[箱根外輪山]]や[[北アルプス]]に登ったり、同僚らと三国峠、[[法師温泉]]などにキャンプに行ったりしたこともあった<ref name="nenpu-chi"/>。直接教えた生徒の中には、後に女優となる[[原節子]]もいた<ref>織井優佳 (2020年6月3日). “[https://www.asahi.com/articles/ASN6273TRN5XULOB00M.html 神奈川)原節子を教えた中島敦先生 記録見つかる]”. ''朝日新聞デジタル''. 2020年11月7日閲覧。</ref>
 
教師時代に「斗南先生」「北方行」など多くの作品を執筆しており{{Sfn|勝又|2004|p=30}}<ref name="nenpu-chi"/>、[[1934年]]7月、「虎狩」を『[[中央公論]]』新人号に応募して、選外佳作10編に入る{{R|磯田ほか編1988}}。敦はこの結果に、氷上英廣宛てのハガキで「虎狩、又してもだめなり。(中略)なまじっか、そんなところに出ないほうがよかったのに。すこしいやになる」と、なまじっか佳作に名を連ねていることを悔しがり応募したことを後悔している{{Sfn|森田|1995|p=70}}{{Efn|この「又してもだめなり」という語から、「虎狩」がこれ以前の別の応募でも落選していたのか、あるいは、「斗南先生」を何かに応募していたのではないかと推察されている<ref name="kaidai1"/>。}}。同じ年の4月に釘本久春を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合っており<ref name="nenpu-chi"/>、さらに[[1936年]]、その三好四郎から[[鎌倉]]に住む[[深田久弥]]を紹介されている{{Sfn|森田|1995|pp=88-89}}<ref name="miyo">{{Harvnb|田鍋|1989|pp=209-213}}</ref>。なんとか中島敦を世に出したいと願う釘本や三好の勧めで、毎週深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになった{{Sfn|森田|1995|pp=88-89}}<ref name="miyo"/>。
83行目:
 
しかし喘息の悪化によって教師を続けることが困難となり{{Sfn|小谷|2019|pp=31-32}}、1940年の暮れごろから喘息のために週1、2回の勤務となっていた<ref name="nenpu-s"/>。冬になると発作がひどくなるため、敦は[[釘本久春]]の勧めもあり、「役人になるのは、少しいや」だったが身体にいいだろうと常夏の南洋に移ることを決めた<ref>中島敦「書簡I――92 昭和16年6月4日」({{Harvnb|ちくま2|1993|p=387}})</ref>{{Sfn|森田|1995|p=85}}<ref name="wata">「南洋行」({{Harvnb|渡邊|2005|pp=138-155}})</ref>。釘本の斡旋で[[南洋庁]]の就職が決まり、[[1941年]](昭和16年)6月28日に[[横浜港]]から[[パラオ]]に出発するが{{R|日本近代文学館1977|nenpu-chi}}、父への置手紙には、少し気が進まないといった内容も書き残していた<ref name="sho99">中島敦「書簡I――99 昭和16年6月28日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=389-392}})</ref><ref name="wata"/>。
 
直接教えた生徒の中には、後に女優となる[[原節子]]もいた。<ref>{{cite news |title=神奈川)原節子を教えた中島敦先生 記録見つかる|url=https://www.asahi.com/articles/ASN6273TRN5XULOB00M.html/|accessdate=2020-06-12}}</ref>
 
=== パラオ南洋庁時代 ===
180 ⟶ 178行目:
すでに戦後の[[国定教科書]]『中等国語』において、中島敦の作品『[[弟子 (小説)|弟子]]』が[[孔子]]に関する補助教材として採用されていたという{{Sfn|佐野|2013|p=33-41}}{{Sfn|川村|2009a|pp=10-14}}。この『弟子』の教科書採用が、のちの『[[山月記]]』の検定教科書での採用のきっかけのひとつになったとされる{{Sfn|佐野|2013|p=33-41}}{{Sfn|川村|2009a|pp=14-15}}。また、中島敦の大学時代の友人であった[[釘本久春]]が文部省に勤めており、釘本の推薦もあったとされる<ref name="yamashita">{{Harvnb|山下|2018}}</ref>。
 
前述したように[[1948年]]全集が[[毎日出版文化賞]]を受賞した{{Sfn|川村|2009a|p=341}}{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。当時の同賞は用紙不足からくる「良書主義」「悪書追放運動」の一環として行われており、この受賞により『中島敦全集』は「良書」の代表として社会に受け入れられることとなった{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。そして、この毎日出版文化賞受賞の影響を受けて、翌年の1950年の検定教科書のひとつに『山月記』が初めて教材として採用されることとなる{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。1951年には別の2社の教科書も『山月記』を取り入れ、さらに1952年には[[実教出版]]の教科書が『[[李陵 (小説)|李陵]]』の一部を『司馬遷』と題して収録しており、『弟子』『李陵』『山月記』の3作品の教科書での掲載数は増加していった{{Sfn|川村|2009a|pp=10-14}}。
 
昭和二十六年度版[[学習指導要領]]では、高校生の読書能力を高めるための「読書指導」の重要性が強調されており、『山月記』はそのための理想的な教材として受け入れられた{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。他方で、中島の作品は旧来の[[儒学]]思想・[[漢文]]の保守的な伝統を引き継ぐものであるとも見られていた{{Sfn|川村|2009a|pp=14-16}}。そのため、民主教育の立場に立つ人々や、国語教育の新しいあり方を探ろうとしていた[[柳田国男]]・[[時枝誠記]]らの一部の教科書編者は教科書採用に肯定的ではなかったという{{Sfn|川村|2009a|pp=14-16}}。
544 ⟶ 542行目:
;【全集】
* [[筑摩書房]]版『中島敦全集』
**全3巻、1948年10月 - 1949年6月刊 {{Ncid|BN04708577}}第3回[[毎日出版文化賞]]受賞{{Sfn|川村|2009a|p=341}}{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}})
**全3巻、1976年3月 - 9月刊 {{Ncid|BN00960949}}
**全3巻・別巻1冊、2001年10月 - 2002年5月刊 {{Ncid|BA54121705}}
567 ⟶ 565行目:
* 『山月記・名人伝・牛人』 [[江守徹]] 朗読、[[新潮社]]〈新潮[[カセットテープ|カセットブック]] 〉、1988年/新潮CD、1997年、ISBN 410-8310039
* 『李陵』 [[日下武史]] 朗読、新潮社〈新潮カセットブック〉、1993年/新潮CD、2005年、ISBN 410-8301765
* 『敦 山月記・名人伝』 [[野村萬斎]] 構成・出演、[[WOWOW]]、2006年、{{Asin|B000GFM80O}} - [[DVD]]
* 『山月記』 [[小野大輔]] 朗読、[[海王社]]文庫、2014年、ISBN 479-6405763 - 朗読CD
*: ''個別作品の朗読作品については、『[[山月記#朗読CD]]』など個別記事を参照。''
* 『敦 山月記・名人伝』 [[野村萬斎]] 構成・出演、[[WOWOW]]、2006年、{{Asin|B000GFM80O}} - [[DVD]]{{Efn|『敦 山月記・名人伝』は[[世田谷パブリックシアター]]で2005年に公開され、構成・演出・出演を務めた[[野村萬斎]]は朝日舞台芸術賞(舞台芸術賞)と[[紀伊国屋演劇賞]](第40回個人賞)を受賞した<ref>”[http://www.asahi.com/shimbun/award/stage/05.html 第5回(2005年)受賞者(敬称略)]”. ''朝日舞台芸術賞''. [[朝日新聞社]]. 2020年11月7日閲覧。</ref><ref>“[https://www.kinokuniya.co.jp/c/label/award/31.html 第31回~]”. ''[[紀伊國屋演劇賞]]''. [[紀伊国屋書店]]. 2020年11月7日閲覧。</ref>。}}
 
== 保存活動・企画展 ==
609 ⟶ 607行目:
* [[森田誠吾]]『中島敦』 文春文庫、1995年、ISBN 4167324040
* [[中村光夫]]・氷上英廣編 『中島敦研究』 筑摩書房、1978年、{{Ncid|BN00245375}}
* 斎藤勝『中島敦書誌  近代文学書誌大系』 和泉書院、1997年、ISBN 4870888688
 
=== 作品論 ===