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[[江戸]]に生まれる。幼少から[[地理学]]を好み、[[寛政]]元年([[1789年]])、母方の叔父[[市河寛斎]]の紹介により[[大槻玄沢]]の[[芝蘭堂]]に入門した。塾内では「玄沢四天王」のひとりとされ、蘭学者番付では西関脇となっている。
 
かれは蘭学者としては唯一、世界地理や西洋史を研究した人物で、[[享和]]2年([[1802年]])には[[オランダ語]]地理書から訳出し、[[新井白石]]著の『[[采覧異言]]』に訂正・補足を施し、総合世界地理書『[[訂正増訳采覧異言]]』としてまとめた<ref name=kagawa102>[[#賀川|賀川(1992)pp.102-103]]</ref><ref group="注釈">『采覧異言』は、幕府侍講の新井白石が、布教のため来日した[[イタリア人]][[宣教師]][[ジョバンニ・シドッチ]]を尋問して得た知識などを基に著わされた日本最初の組織的世界地理書である。全5巻。</ref>。これは、18世紀の日本の世界地理書の総決算というべきものであり、[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)には師の大槻玄沢および[[江戸幕府]]に献上し、他方、幕命により『魯西亜国志』をまとめた<ref name=kagawa102/>。白石『采覧異言』は刊行されなかったものの、写本のかたちで流布しており、才助はこれに東西の地理書を収集・翻訳するとともに、当時の日本における地理情報も参照して『訂正増訳采覧異言』を完成させた<ref name=kagawa102/>。この業績は、[[平田篤胤]]、[[豊田天功]]、[[渡辺崋山]]、[[吉田松陰]]など各方面において、その世界認識に大きな影響をおよぼした<ref name=kagawa102/>。
 
こののち、訳稿である『[[新訳東西游記]]』などを著した。ほか、明代の[[イエズス会]]士[[ジュリオ・アレーニ]](艾儒略)による地理書『{{仮リンク|職方外記|zh|职方外纪|en|Zhifang Waiji}}』を検証した『明儒翻訳万国図説考証』、同門の[[橋本宗吉]]の誤りを訂正した『喎蘭新訳地理全図』などがある。38歳で死去。没後公刊の著作も多い。
 
== 脚注 ==