「陶邑窯跡群」の版間の差分

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=== 中村浩による編年 ===
 
==陶邑窯跡群における須恵器生産の沿革==
==初期須恵器窯と畿内政権(ヤマト王権)==
 
=== 揺籃期 ===
[[1991年]]([[平成]]3年)、陶邑窯北部に位置する堺市大庭寺遺跡の[[発掘調査]]により、古墳時代の集落の[[遺構]]等とともに明らかにされたTG232号窯およびTG231号窯からは朝鮮半島の陶質土器の影響が色濃い初期須恵器が大量に出土している。また、そこから1[[キロメートル|キロ]]余り西の地点で先の2つの窯跡よりやや遅れる段階に操業を開始したと思われるON231号窯が発掘され、ここからも大量の初期須恵器が出土している。さらにここから2キロ西に離れた和泉市内において[[1966年]]([[昭和]]41年)に調査されながら、[[1999年]](平成11年)に正報告がなされた濁り池須恵器窯もTG232窯にすぐ後続する段階のものであり、須恵器生産の最古の段階(4世紀末 - 5世紀初頭)から陶邑で、かなりの規模の生産が継続的に行なわれていたことを示している。これらの初期の窯跡は陶邑でも北部の平野部に近い場所にあり、丘陵の入口部から須恵器窯としての開発が始められ、時期が下るとともに丘陵の奥に窯が設けられるようになっていったようである。
 
なお、当古窯跡群の北方数キロには[[5世紀]]に造営された[[大仙陵古墳]]を始めとする[[百舌鳥古墳群]]が展開しており、陶邑窯の創設当初、巨大古墳群の造営主体である初期畿内政権([[ヤマト王権]])中枢と直接の関わりがあったことが想定されている。こうして、5世紀以降、時期ごとに営まれた窯の数の増減はあるものの[[平安時代]]まで日本最大級の窯業生産地として栄えた。我国の窯業生産発祥地の1つと言える。
 
==陶邑窯の=衰退期===
陶邑窯一帯の生産は、[[7世紀]]以降衰退が始まり、9世紀の後半頃に廃絶してしまう。衰退の原因の一つは、燃料となる[[森林]]資源を消費しつくしたためと考えられている。これは、時代が経るにつれ使用される[[木炭]]の樹種が、更新可能な[[広葉樹]]から荒廃地でも生育する[[アカマツ]]([[二次林]])に変化していることからも裏付けられている<ref>西田 1976 pp.178~187</ref><ref>中村 2006 pp.88</ref><ref>太田猛彦『森林飽和』p94 NHK出版 2012年</ref>。少なくなりつつある燃料材をめぐる争いは『[[日本三代実録]]』の中で[[859年]]([[天安 (日本)|天安]]3年/[[貞観 (日本)|貞観]]元年)に起きた「[[陶山の薪争い]]」として記録されている<ref>[http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/suemurakamaato.html 陶邑窯跡群-泉北丘陵周辺の遺跡と古墳] 堺市ホームページ 2017年12月1日閲覧</ref>