「武田元明」の版間の差分

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しかし天正9年([[1581年]])3月、[[大飯郡]]高浜城8,000石の領主である逸見昌経が死去すると、信長はこれを後嗣なしとして逸見氏の所領を没収し、その一部、大飯郡佐分利の[[石山城 (若狭国)|石山城]]3,000石(旧武藤領)は元明に与えた。元明は若狭衆の1人として長秀の与力となった。
 
天正10年([[1582年]])6月に[[本能寺の変]]が起こると、若狭守護だった頃の勢力の回復する好機と思った元明は、若狭国衆を糾合して蜂起し、[[明智光秀]]や義兄[[京極高次]]と通じて、近江へ侵攻して丹羽長秀の本城・[[佐和山城]]を陥落させた。しかし[[山崎の戦い]]で光秀が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敗死すると、状況は一転。恭順の意を示そうとした元明は、長秀のいる近江海津(貝津)に招かれて、7月19日に海津の宝幢院(ほうどういん)で謀殺された。秀吉が殺したとも{{refnest|group="注釈"|これはよく知られた誤伝という。}}、自害したともいわれる。享年21または331{{refnest|group="注釈"|『若狭国志』では没年齢を21歳、『若州観跡録』では没年齢を31歳としており、没年齢については2説ある。}}{{refnest|group="注釈"|分家([[武田信豊 (若狭武田氏)|信豊]]の弟[[山県盛信]]の子孫)が残した『武田系図山縣本』でも享年を31、生年を天文21年とする<ref name="p65"/>。}}。
 
== 子孫 ==
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