「高桑大将軍」の版間の差分

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出身は美濃国厚見郡高桑邑(現在の岐阜県岐阜市柳津町高桑)。美濃源氏の高桑城、城主。高桑一族の長。
 
[[承久の乱]]の、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]側の京方軍朝廷から「大将軍」に任命された。東山道軍。
 
「[[承久記]]」によると、[[承久の乱]]において、朝廷軍、幕府軍の両軍通じて戦死第一号者である。
高桑大将軍は、大変大きな立派な鎧武者を身に付けており、矢で射抜き高桑大将軍は戦死した。
 
[[承久の乱|承久の乱「木曽川の戦い」[[承久の乱]]において、両軍を通じての戦死第一号である。
 
 
 
この謀反事件は、[[承久の乱]]の僅か6年後に起きている。この乱の幕府側主導者であった第二代執権 [[北条義時]]はこの事件の前々年に死去(62歳)。[[北条政子]](69歳)と幕府の大黒柱であった[[大江広元]](78歳)は、共に事件前年に死去している。
 
高桑次郎は、幕府を支えたこの3人の相次ぐ死去で幕府の力がかなり弱まったと誤認し、「頃は良し」と決起したのかもしれない。
 
「頃は良し」と決起したのかもしれない。
 
== 参考文献資料 ==
・我妻鏡
 
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