「野村沙知代」の版間の差分

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=== 南海球団との争い ===
[[1973年]]7月23日には、克也との間に[[野村克則|克則]]が誕生したが、克也は当初、克則を[[認知 (親子関係)|認知]]しなかったため、沙知代は克則を実父・巳之吉の[[養子縁組|養子]]にしようとしたという<ref>『姉野村沙知代』142頁</ref>(翌1974年6月に克也は克則を認知)。この頃から沙知代は、南海のチーム運営に口を出すなどの行為が目立つようになり、選手たちの不満が渦巻くようになった<ref>偉大なる月見草・野村克也の人生 - 圧倒的な才覚で野球と向き合った波乱の54年 『週刊ベースボール・タイムズ』 株式会社スクワッド Vol.033 2008年12月3日/10日合併号 p40</ref>。[[門田博光]]には「野村の方針に文句を言うな。文句を言うなら試合で使わないわよ」と電話を掛けたという<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2018/01040759/?all=1&page=1 実の息子からも恨み節、写真集は“返本率9割” 「野村沙知代さん」猛女伝説],週刊新潮 2017年12月21日号掲載</ref>。
 
1975年秋、ついに我慢の限界に達した選手たちは沙知代の排除を計画し、[[中百舌鳥球場]]で行われた秋季キャンプで克也が選手に意見を求めた際に、門田博光、[[西岡三四郎]]、[[江本孟紀]]の3人が「"カゲ"の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め<ref>『門田博光の本塁打一閃』118-120頁</ref>、11月には西岡、江本、[[藤原満]]の3人がチームを代表して大阪市内のホテルで克也に「公私混同を止めてください」と直訴した<ref>『野球バカは死なず』156-158頁</ref>。
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