「常滑焼」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
36行目:
常滑に[[連房式登窯]]が導入されるのは天保年間のこととされる。同じ天保年間に二代伊奈長三は板山土と呼ばれる白泥焼の原料を見出し、この土に乾燥させたジュズモ(海藻)を巻いて焼くことで生まれる火色焼(藻掛け技法)を生み出した。連房式登窯は真焼窯とも呼ばれ窯詰めされたものが、すべて真焼けになるのに対し、従来の大窯では燃焼室寄りに置かれたものは真焼けになるが、奥の煙道よりのものは温度が上がらず赤物になっていた。江戸末期に登り窯が導入された背景には、常滑においても各種の小細工物が量産される状況に至ったことをうかがわせる。この登り窯導入を行ったのは瀬木村の鯉江小三郎(方救)で、その息子の伊三郎(方寿)も協力したといわれる。しかし、年齢を考えると天保年間に方寿が大きく貢献したとはみなしがたい。また、鯉江家は尾張藩の御用を勤めていたとされるが天保11年には尾張藩の御小納戸御用、御焼物師の役を伊三郎(方寿)が勤めている。そして、その「御焼物師 鯉江伊三郎」と銘を入れた壺が煙硝壺として伝存している。同形のもので、梅干壺とされるものもあり、その仕様を書いた安政七年の御掃除方役所が出した古文書もあるが、梅干壺は鯉江の窯で焼いた形跡がない。そして、梅干窯を焼いた窯として松本久右衛門の松本窯が知られている。この窯は流通業で富を得た松本家が陶器生産に参入した結果生まれたものながら、その操業にあたって従来の窯業者との間に大きな摩擦が発生したという記録がある。
 
2020年、発掘調査によって、奈良県[[大和郡山市]]の[[郡山城]]の外堀に「[[暗渠]]」と呼ばれる排水設備が設置されている事実が発見された。この排水設備は江戸時代(17世紀前半頃)に作られたと推定されており、土管の材料として常滑焼が使用されている可能性が高いと指摘されている。なお、耐久性を向上させるため、短い土管を多数連結した構造となっている。連結部分には水漏れ防止のため、漆喰が塗られている<ref>[[奈良テレビ放送]](2020年11月10日)「[https://this.kiji.is/698857947160790113 郡山城外堀発掘調査 江戸時代の土塁や排水設備など見つかる。]」</ref>。現代まで約170年間使用され続けてきたことが判明しており、現在の水道管と比較しても耐久性に優れていると評価されている<ref>[[産経新聞|SankeiNews]](2020年11月10日)「[https://www.youtube.com/watch?v=uHXWbpybg6Y 江戸後期の常滑焼土管が出土 奈良・郡山城]」</ref>。
 
=== 近代の常滑焼 ===