「日本教会音楽研究会」の版間の差分

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'''日本教会音楽研究会・聖歌の友社'''(にほんきょうかいおんがくけんきゅうかい・せいかのともしゃ)は、[[東京都]][[練馬区]][[桜台 (練馬区)|桜台]]に事務所があり、『[[聖歌|聖歌』]]の出版と普及が主な目的。当初は、「教会音楽研究会」と称した。略称は、日本教会音楽研究会または聖歌の友社。聖書信仰を強調する[[福音主義]]、[[超教派]]の団体。[[和田健治]]が代表を務める。19世紀末に発行された「救の歌」からの日本福音聖歌史が、100年にわたる中で完成した[[聖歌 (総合版)|『聖歌』総合版]]を2002年に発行した。本書は、日本の教会が発展するために、信徒が時代の聖書に従い(コロサイ3:15・16他)、社会変化などによる多様性尊重しつつ、みなが各時代や教派を超えて一致して歌い成長できように編集し共通聖歌の使命を果すために、永続出版するものである。
 
『聖歌』総合版は通称であり、正式の書名(奥付による)は『聖歌』。副題subtitleは総合版。『聖歌』の書名は、1958年発行の中田編では、1927年発行の由木著が廃刊されていたので使えた。また現在の2002年発行の和田編では、1958年発行の中田編が廃刊されていたので使えたのである。
 
1958年に[[中田羽後|中田羽後(64歳。日本の教会音楽史上の超大家)の]]編集した『[[聖歌 (日本福音連盟)|聖歌』]]が出版された。その2年後から、現代表の和田健治(26歳)が中田羽後に師事し始め、教会音楽の理論を学び、共に研究するようにった。中田は和田の作曲を評価し、『聖歌』の編集には曲の分析、評価その他において高度な作曲能力が必要であることや、また日本人作の優れた聖歌を多く残すことなどを期待し、自分が作曲を予定していた多くの詞を和田に託した。
 
1968年に中田羽後は狭心症で入院。視力や体力は衰え、退院後、関係者一同の勧めで1969年1月に、和田健治と一緒に月刊『聖歌の友』を創刊して主筆となった。編集・発行は和田健治(以後、23年間にわたり195号まで発行)。『聖歌』普及活動の全体を主宰し、また改訂に必要な資料も集めるなど、教会音楽の研究の成果を世に発表し始めた。中田の生涯を記録する資料は後継者の和田に与え、また「聖歌の友」を刊行した[[屋号]]を「聖歌の友社」と称した。それ以降、当会の出版部門を「聖歌の友社」としている。(2003年に有限会社を設立。)
 
1971年に中田羽後は心筋梗塞で入院。医者から活動を止められて、和田に対し、今後、中田著作物全体を聖歌の友社から順次、日本の教会のレベルアップに必要な未発表のものから先に出版して永く残してもらいた。その編集、発行、PRなどや経費は著者の責任であるが、やむを得ないので全て和田が責任をもって行ってもらいたい。従って、中田著作物の複製使用は、すべて自由・無料であり、遺言書には「『聖歌の友』の主筆は和田健治に移る。従って、聖歌の友社出版の諸出版物は、今まで通り和田健治が所有する」と記しておくと約束し、託した。
 
そこで同年より、和田健治は中田羽後訳詞「メサイア」「青年聖歌」「聖楽独唱名曲集」「子供聖歌」などを、中田の生前に出版した。同時に普及活動も行いつつ、それ以後も今日まで、他の書籍と合わせて、出版と普及活動を続けて来た。特に「メサイア」は、世界トップレベルの大曲であるから「日本語で歌うことはとうてい無理だ」と一般に言われて来たものであり、経費も、楽譜作り等も全く困難であった。その後、毎年連続公演して高評の教会が増えている。実に歴史的なものであり、日本の宝としたいものである。作詞、訳詞、作曲、編曲、声楽、指揮などをマスターした総合力や、聖書信仰によって達成できたものである(Ⅰコリント14章)。なお、和田は自分で主宰・指揮した公演を、生涯にわたり合計62回開催し、普及に努めて来た(東京で50回、関西で12回)。