「高桑大将軍」の版間の差分

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'''高桑大将軍'''(たかくわたいしょうぐん、生年不明 - [[承久]]3年([[1221年]]))は、[[鎌倉時代]]前期の武将。出身は[[美濃国]][[厚見郡]]高桑邑(現在の[[岐阜県]][[岐阜市]]柳津町高桑)。美濃源氏の[[高桑城]]城主。高桑一族の長。
 
[[承久の乱]]で[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]側の京方軍。朝廷から「大将軍」に任命された。[[東山道]]軍。『[[承久記]]』によると、朝廷軍、幕府軍の両軍を通じ戦死者第一号である。
京方東山道軍の大将である[[大内惟信]]とともに朝廷から大将軍に任命された高桑大将軍は、次男である高桑次郎と高桑武士団を結成し、約2000騎を引き連れて幕府軍と戦った。[[木曽川]]には当時、複数の浅瀬があり、京方軍はそれらの浅瀬に軍勢を引き連れ木曽川の浅瀬で幕府軍を迎え撃つ構えをとる。
 
『承久記』によると、高桑大将軍は、木曽川の戦いにおいて最北の「大井戸の疫」(現在の岐阜県[[美濃加茂市]]大田三井)の守備につき、馬上で指揮をとった。高桑大将軍、[[高桑次郎]]、高桑武士団は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]とは異なり、一族の姓名「高桑」を大書した織旗を自陣に押立てていた。このため、敵方である幕府軍甲州源氏の[[武田氏]]、[[小笠原氏]]に高桑殿大将軍とすぐに判明する。
 
小笠原氏の郎徒(郎党兵卒)の荒三郎(19歳)は木曽川の疫河である場所を探るため川に潜っていたところ、立派な鎧を身に付けた高桑大将軍を発見して矢で射抜き、高桑大将軍は戦死した。
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