「山崎の戦い」の版間の差分

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羽柴秀吉は[[高松城 (備中国)|高松城]]に篭る毛利軍を包囲していたが、守将・[[清水宗治]]の申し出を受諾し、近日中に高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし秀吉は[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]に本能寺の変の報を入手し{{Efn|[[原平内]]なる者が秀吉の軍の中に毛利軍と間違え飛び込んできた際、彼が体に隠していた手紙から信長の死の情報を入手した<ref>{{Cite book|和書|series=歴史群像シリーズ|title=織田信長 天下一統の謎|publisher=学研|year=1989|page=134}}</ref>。}}、ただちに毛利軍との和議を結ぶ。秀吉は[[6月4日 (旧暦)|4日]]に[[堀尾吉晴]]・[[蜂須賀正勝]]を立会人にして宗治の自刃の検分を行い、翌[[6月5日 (旧暦)|5日]]から[[6月6日 (旧暦)|6日]]にかけて撤兵すると、6日に沼([[岡山城]]東方)、[[6月7日 (旧暦)|7日]]に[[姫路城]]、[[6月11日 (旧暦)|11日]]には尼崎([[尼崎市]])に達し、いわゆる「[[中国大返し]]」と言われる機敏さで[[畿内]]へ急行した。
 
秀吉の懸念材料は、京都への進路上に勢力を張る摂津衆の動向であった。もし彼らが光秀方に与し足止めを受ければ、短期決戦に持ち込みたいと考えた羽柴軍の計画に狂いが生じる。折しも、本能寺の変の報せを入手した摂津衆の一人・[[中川清秀]]から書状が舞い込み、秀吉は「上様(信長)・殿様([[織田信忠|信忠]])は危難を切り抜け[[大津市|膳所]]に下る。これに従う[[福富秀勝]]は比類なき功績を打ち立てた」という旨の返書を清秀に出した(6月5日付)。この返書は虚報であったが、光秀が大坂方面を重要視しなかったこともあり清秀・[[高山右近]]を始めとする摂津衆の多くが秀吉軍に味方する。四国の[[長宗我部氏|長宗我部]]征伐のために大坂に集結していた[[織田信孝|神戸信孝]](織田信孝)・丹羽長秀は徳川家康の接待のために軍を離れており、本能寺の変の噂を伝え聞いた雑兵の多くは逃亡してしまったが、4千の兵をまとめて合流し、最終的に秀吉軍は2万を超えた。
 
羽柴軍は[[6月12日 (旧暦)|12日]]に[[富田 (高槻市)|富田]]で軍議を開き、秀吉は総大将に長秀、次いで信孝を推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となり(名目上の総大将は信孝)、山崎を主戦場と想定した作戦部署を決定した。なお、長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の疑いがあった光秀の女婿・[[津田信澄]]を自刃に追い込んでいる。