「顕子女王」の版間の差分

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== 生涯 ==
伏見宮貞親王の娘として[[京都]]で生れた。母は[[宇喜多秀家]]の娘([[豊臣秀吉]]の養女)<ref>歴史読本「徳川将軍家の正室」蒲生眞紗雄著『浅宮顕子』([[新人物往来社]])P99</ref>。
 
[[東福門院]]の人選によって将軍家綱と婚約<ref>[[高柳金芳]]『徳川妻妾記』([[雄山閣]])P121-P122</ref>。[[明暦]]3年(1657年)4月5日に京都を発ち、同月23日に[[江戸城]]本丸・[[大奥]]に入った<ref>[[竹内誠 (歴史学者)|竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[東京堂出版]])P204</ref>。お付き[[上臈御年寄|上臈]]として、京より姉小路局や飛鳥井局などが付き従った。7月10日に江戸城西の丸にて婚儀が執り行われた<ref>西の丸で婚儀が行われたのは、同年1月に起きた[[明暦の大火]]により本丸御殿が焼失し、再建が間に合わなかった為である</ref>。