「福沢一郎」の版間の差分

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[[1915年]]、[[群馬県立富岡高等学校|旧制富岡中学校]]を卒業。[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]英法科<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940307/138 第二高等学校編『第二高等学校一覧 自大正7年至大正8年』第二高等学校、1918年、p.266]</ref>を経て、[[1918年]]、[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家[[朝倉文夫]]に入門し、[[彫刻家]]を志す。[[1922年]]、第4回[[日展|帝展]]に彫刻作品「酔漢」が初入選。1923年の[[関東大震災]]を気に渡欧を決意し、[[1924年]]から[[1931年]]にかけてパリに遊学<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=8}}</ref>。1924年といえば[[アンドレ・ブルトン]]がシュルレアリスム宣言を著した年であり<ref name=":1" />、[[ジョルジョ・デ・キリコ]]や[[マックス・エルンスト]]など、最先端の美術潮流の影響を受けて絵画制作へと移る<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=詩人と美術:瀧口修造のシュルレアリスム|date=|year=2013|publisher=瀧口修造展実行委員会|page=179}}</ref>。
 
1931年の帰国に先立ち、[[1930年]]、[[独立美術協会]]の結成に参加<ref name=":2" />。第1回独立美術協会展に滞欧作品が特別陳列され、日本の美術界に衝撃を与えた<ref name=":2" />。以後も旺盛な創作活動と執筆によりシュルレアリスムの紹介に努め、[[前衛美術|前衛]]の主導的立場となる<ref name=":2" />。1934年頃、[[プロレタリア文学|プロレタリア芸術運動]]が政府の弾圧を受け壊滅し、表現者の間で閉塞的な空気が立ち込める中で、[[小松清]]らが唱えた[[積極行動主義|行動主義]]思想に福沢も共鳴<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=10}}</ref>。古典的なイメージを引用し、そこに象徴的な意味を忍ばせた作品を描き、社会批評的表現を試みた<ref name=":3" />。1936年、福沢絵画研究所を開設、後進の指導を行う<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=9}}</ref>。[[1939年]]、独立美術協会を脱退し、若手の画家たちとともに新たに[[美術文化協会]]を結成。この団体がシュルレアリスムの影響を受けた画家たちの一大拠点となった<ref name=":4" />。しかし、[[治安維持法]]違反の疑いにより、[[1941年]]4月4月5日に[[共産主義]]者の嫌疑で詩人・評論家の[[瀧口修造]]とともに逮捕、拘禁された<ref name=":2" /><ref>『日本美術家事典 2003年度版』(構成執筆・藤森耕英、日本美術家事典社、2003年3月)</ref>。シュルレアリスムと[[共産主義]]との関係を疑われ尋問を受ける<ref>{{Cite book|和書|title=福沢一郎展:このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=74}}</ref>。同年11月に二人は釈放されるものの、その後は軍部への協力を余儀なくされ、[[戦争画|戦争記録画]]を手掛けるようになる<ref>{{Cite book|和書|title=福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=74}}</ref>。
 
戦後に活動を再開。《敗戦群像》(1948年、[[群馬県立近代美術館]]蔵)は、日本の近代美術史において、しばしば戦後美術の起点と位置づけられる<ref>{{Cite book|和書|title=福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=80}}</ref>。1952年渡欧、その後ブラジルやメキシコ、インド、オーストラリア、ニューギニア等取材旅してまわる<ref>{{Cite book|和書|title=福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=94}}</ref>。[[高度経済成長]]をとげる日本の社会状況にむしろ逆らうかのように、プリミティブなエネルギーから想像を膨らませた作品を描いた<ref name=":4" />。1957年、この年を最後に美術文化協会を脱会、以後無所属<ref name=":5">{{Cite book|和書|title=福沢一郎とそれぞれの戦後美術|date=|year=2004|publisher=富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館|page=92}}</ref>。同年、第4回[[日本国際美術展]]にて《埋葬》が日本部最高賞受賞<ref name=":5" />。1958年、[[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]副代表として瀧口修造とともに渡仏<ref name=":2" />。1965年には[[アフリカ系アメリカ人公民権運動|公民権運動]]が高まりを見せていたアメリカを旅し、自由を求める運動のエネルギーを、[[アクリル絵具]]を駆使したすばやいタッチの連作として描いた<ref>{{Cite book|和書|title=福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ|date=|year=2019|publisher=東京国立近代美術館|page=106}}</ref>。1970年代以降は[[旧約聖書]]や神話の世界に主題を求め、力強く奔放なタッチに鮮やかな色彩を特徴とした<ref name=":2" />。
 
[[多摩美術大学]]、[[女子美術大学]]教授をつとめた。[[1978年]]、[[文化功労者]]となる。[[1991年]]、[[文化勲章]]を受章。
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