「赤蝦夷風説考」の版間の差分
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『'''赤蝦夷風説考'''』(あかえぞふうせつこう)は、[[江戸時代]]中期の医師・[[経世論|経世家]]([[経済学者]])である[[工藤平助]]が著した[[ロシア帝国|ロシア]]研究書
==執筆の背景==
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==本書の内容==
『赤蝦夷風説考』はロシア全般に関する地理書とも目されているが、主題は喫緊の課題であったカムチャツカ半島を中心とした地理の把握にあった<ref name="Iwasaki"/>。単なる蘭書からの情報摂取ではなく、日本が掴んでいた情報を統合しカムチャツカ半島の状況分析に用いられた点に特色がある<ref name="Iwasaki"/>。日本における本格的なロシア研究本としては嚆矢となる書であり、多くの同憂を啓蒙した。
上巻には、
*赤狄風説の事
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*松前より写し来る赤狄の図説の事
*土産物
内容は[[オランダ語]]訳された[[ドイツ]]人[[ヨハン・ヒュプナー]](Johann Hubner)の著『地理全誌』(ゼオガラヒー、万国地誌とも、[[1769年]]刊)第5巻「ロシア誌」などの蘭書
==刊行の影響==
当時、[[江戸幕府]]で政治改革の主導権を握っていた老中[[田沼意次]]も、蝦夷地経略に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に早急に備える必要性を認識していた。
そこで工藤平助は、なんとか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人[[三浦庄司]]を介して上申を試みる。その甲斐あって天明4年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1784年]][[7月3日]])、[[勘定奉行]][[松本秀持]]が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、本書が添付された。伺書は本書を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地や豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。それを受けた田沼がさっそく翌5年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし、翌天明6年([[1786年]])の田沼の失脚により、この探索隊は中途で断絶してしまった。
田沼政権の後を執った[[松平定信]]は、[[文化]]5年([[1808年]])に先年に起きたロシアとの紛争に触発され、ロシアについて学習する必要性を説いた『秘録大要』という少文を著したが、付属したロシア学習のために読むべき書誌リスト「集書披閲」の中で『加摸西葛杜加国風説考』は[[桂川甫周]]の『魯西亜誌』に次ぐ3番目の位置に掲載されており、本書を軍書(軍事資料)として評価したことが付言されている<ref name="Iwasaki"/>。
いっぽう、本書に影響されて蝦夷地やロシアに対する関心が高まりを見せ、平助と同じ仙台藩医・[[林子平]]が『[[海国兵談]]』を著し、平助が序文を寄せている。
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==関連項目==
*[[
*[[北方探検]]
*[[モーリツ・ベニョヴスキー#日本に来航]]
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