「プロレス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
266行目:
[[1921年]]にアメリカのプロレスラー、[[アド・サンテル]]が弟子の[[ヘンリー・ウェーバー]]を連れて来日し、[[講道館]][[柔道]]に対戦を要求。講道館は対戦を拒否したが、系列の[[弘誠館]]が受けてたち、永田礼次郎、庄司彦雄、増田宗太郎、清水一の4名の柔道家が対戦。今で言う[[異種格闘技戦]]であり、試合は東京の九段の[[靖国神社]]相撲場で3月5日と6日の両日に行われている。なお、この試合に関しては「'''プロレス対柔道'''」のタイトルで[[週刊少年ジャンプ]]にて漫画化されている<ref>原作・原案:[[桜井康雄]]、作画:[[竜崎遼児]]にて、週刊少年ジャンプ1976年(昭和51年)第21~26号にかけて全6話にて連載。</ref>。
 
日本の大手プロレス団体は[[力道山]]がデビューした[[1951年]]を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後に力道山が[[1953年]]に[[日本プロレス]]を旗揚げしてからのことである<ref>{{Cite web|url=https://spaia.jp/column/professional_wrestling/2139|title=知っていれば楽しさ倍増!日本のプロレスの歴史を簡単チェック|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2016-12-16|accessdate=2020-11-15}}</ref>。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後[[連合国軍最高司令官総司令部]]GHQ/SCAPによる[[武道]]の禁止指令により[[柔道]]が禁止されていたため柔道家の[[牛島辰熊]]が1950年2月に[[国際柔道協会]](プロ柔道)を設立して[[木村政彦]]、[[山口利夫]]、坂部保幸らが参加したプロ柔道として力道山より早くプロ柔道興行を始めていたが4か月10回の興行後は木村政彦、山口利夫、坂部保幸が日本プロレスに移籍して最終的には力道山の手によって統一される。戦後間もない頃で多くの日本人が[[反米]]感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は[[街頭テレビ]]を見る群集の心を大いに掴み[[プロ野球]]、[[大相撲]]と並び国民的な人気を獲得。
 
==== 昭和後期、BI砲の時代 ====