「日明貿易」の版間の差分

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加筆・編集(勘合は紙製というのが通説のため「木の札」云々の下りは除去)
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[[File:Japan-Ming Trade Ship Flag 1584.jpg|thumb|right|250px|日明貿易船旗 [[万暦]]十二年(1584年)重要文化財([[山口県文書館]]蔵)]]
'''日明貿易'''(にちみんぼうえき)は、[[室町時代]]に日本が中国の[[明]]朝と行った貿易。特に[[室町幕府]]や[[大内氏]]との[[朝貢|朝貢貿易]]は、[[倭寇]]や密貿易と区別し正式な[[遣明使]]船である事が確認できるよう[[勘合]](勘合符)を使用したことから'''勘合貿易'''(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。
ただし、勘合はあくまで外交使節に発給された通行証であり、貿易許可証ではないため「勘合貿易」と言う呼称は使用するべきではない、という意見が通説となっている<ref name="Hasimoto">[[橋本雄]]「日明勘合再考」、九州史学研究会(編)『境界から見た内と外』 <『九州史学』創刊50周年記念論文集>下 岩田書院 2008年 ISBN 978-4-87294-534-8 pp.327-362.</ref>。
 
== 歴史 ==
[[1401年]](応永8年)から[[1549年]](天文18年)まで、19回に渡り交易が行われた。[[1404年]](応永11年)以降は勘合を所持した者に限られるようになり、1432年(永享4年)に[[宣徳条約]]で回数などが規定される。勘合符とは木の札に字を書いてから、中央で二つ割りにしたものである。両者が片方ずつ所持し、照合のさいに合わせてみて、ぴたりと合えば本物ということになる。勘合には「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した。制限貿易で、日本→明は「本字勘合」、明→日本は「日字勘合」が使用された
 
勘合とは、[[公文書]]となる勘合底簿の上に[[料紙]]をずらして重ね、両紙にまたがるように[[割印]]もしくは墨書したもので、「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した<ref name="Hasimoto"/>。「日字勘合」は明→日本の使行に、「本字勘合」は日本→明の使行に使われ、持参した料紙とそれぞれが持つ底簿を照合したと推測されている<ref name="Hasimoto"/>。
 
[[1401年]](応永8年)から[[1549年]](天文18年)まで、19回に渡り交易が行われた。[[1404年]](応永11年)以降は勘合符を所持した者に限られるようになり、1432年(永享4年)に[[宣徳条約]]で回数などが規定される。勘合符とは木の札に字を書いてから、中央で二つ割りにしたものである。両者が片方ずつ所持し、照合のさいに合わせてみて、ぴたりと合えば本物ということになる。勘合には「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した。制限貿易で、日本→明は「本字勘合」、明→日本は「日字勘合」が使用された。
 
公式の貿易が行われた他、博多や堺などの有力商人も同乗し、明政府によって必要な商品が北京にて買い上げられる公貿易や明政府の許可を得た商人・[[牙行]]との間で私貿易が行われていた。遣明船に同乗を許された商人は帰国後に持ち帰った輸入品の日本国内の相場相当額の1割にあたる金額を[[抽分銭]]として納付した。