「マグネシアの戦い」の版間の差分

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指導者
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|combatant1=[[共和政ローマ]]
|combatant2=[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]
|commander1=[[スキピオ・アシアティクス]]<br>[[グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前192年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス]]<br>[[エウメネス2世]]
|commander2=[[アンティオコス3世]]<br>[[セレウコス4世]]
|strength1=総数約22~3万人
|strength2=総数約66~7万人
|casualties1=約2~4000人
|casualties2=約5万人
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== 背景 ==
セレウコス朝シリアはアンティオコス3世による拡大政策で、東はインド、西は小アジアに至るまで領土を回復させていた。これに反発したローマとの間にローマ・シリア戦争が勃発し、ローマのことを快く思っていなかった[[アエトリア同盟|アイトリア連邦]]とセレウコス朝は手を組んで、共に[[ギリシア]]を攻めた。しかし、{{仮リンク|テルモピュライの戦い (紀元前191年)|en|Battle of Thermopylae (191 BC)|label=テルモピュライの戦い}}に敗れたセレウコス朝はアイトリア連邦を見捨て、小アジアに逃れた。ローマはセレウコス朝を追撃して小アジアのマグネシアに来たり、雌雄を決するべく激突した。この時、[[スキピオ・アフリカヌス|大スキピオ]]は息子を人質にとられていたため、病気と偽って戦線を離脱していた<ref>人質が解放されると同時にマグネシアを目指したが、マグネシアの戦いには間に合わなかった。</ref>。したがって、ローマ軍の指揮は大スキピオの、[[スキピオ・アシアティクス]]が執っていた。
 
== 戦いの経過 ==