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== 生涯 ==
佐原義連の孫である。[[嘉禄]]3年([[1227年]])7月、[[浄土宗]]多念義派(長楽寺義)の祖[[隆寛]]律師([[法然]]の弟子)が奥州に流罪することが決定した際(嘉禄の法難・『円光大師行状絵図翼賛』)、奥州に所領を持つ佐原盛時の預かりとなっている事実から、盛時が宝治の乱以前、すでに会津郡耶麻郡加納庄を領していたことになる<ref>鈴木かほる「佐原三浦介の本領・陸奥国会津上野新田の現在地比定」『神奈川地域史研究』20号 2002年</ref>。これが史料上の初見となる。[[仁治]]2年([[1241年]])、頼経が[[明王院 (鎌倉市)|明王院]]
母の矢部禅尼は最初[[北条泰時]]に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。両者との間に[[北条時氏]]・盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった。
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