「万国津梁の鐘」の版間の差分
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===銘文===
鐘の表には、[[臨済宗]]の僧で琉球・相国寺(後述)の二世[[住持]]である[[渓隠安潜]]による[[漢文]]が刻まれ<ref>新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画</ref>、「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」(書き下し)という一節は、日本と明国との間にあって海洋貿易国家として栄えた琉球王国の気概を示すものとされている<ref name=":0">『[[琉球新報]]』2003年3月1日</ref>、これは現在沖縄においてこの梵鐘が「万国津梁の鐘」と称されるゆえんである{{Refnest|group="注釈"|「日域」は日本(大和)、大明は大明国を指す。また「津梁」は橋または渡しを意味するが、仏教では迷える衆生を彼岸(悟り)に導くことの比喩としても用いられる<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115943/meaning/m0u/ 『デジタル大辞泉』「しんりょう【津梁】」] - goo国語辞書</ref>。}}。▼
▲鐘の表には、[[臨済宗]]の僧で琉球・相国寺(後述)の二世[[住持]]である[[渓隠安潜]]による[[漢文]]が刻まれ<ref>新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画</ref>、「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」(書き下し)という一節は、日本と明国との間にあって海洋貿易国家として栄えた琉球王国の気概を示すものとされている<ref>『[[琉球新報]]』2003年3月1日</ref>、これは現在沖縄においてこの梵鐘が「万国津梁の鐘」と称されるゆえんである{{Refnest|group="注釈"|「日域」は日本(大和)、大明は大明国を指す。また「津梁」は橋または渡しを意味するが、仏教では迷える衆生を彼岸(悟り)に導くことの比喩としても用いられる<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115943/meaning/m0u/ 『デジタル大辞泉』「しんりょう【津梁】」] - goo国語辞書</ref>。}}。
また後半は仏教の興隆が謳われ、これは当時内乱が打ち続いていた[[尚泰久王]]の治世において、仏教による鎮護国家思想を表したものとされている。1457年に尚泰久は[[李氏朝鮮|朝鮮]]から[[大蔵経]]を取り寄せており、仏恩に報じるためにこの梵鐘を鋳造、建立したとされる。大意は次のようである。
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=== 元々の設置場所 ===
この梵鐘は近代沖縄において首里城正殿に懸架されていたとされるが、元々の設置場所については歴史学者の間でも議論がある。1457年に尚泰久王が[[倭寇]]に拉致された朝鮮
元々の梵鐘が懸架され、大典が奉納されていた場所は、先述の[[渓隠安潜]]が梵鐘に打銘した当時に住職をつとめていた相国寺(18世紀までには既に廃寺となっている)か、あるいは尚泰久王自身が仏教に深く帰依していたために住居である首里城正殿か(銘文どおり)、いずれかにあったとする2説に分かれている。
==沖縄のシンボルとして==
*[[翁長雄志]]前沖縄県知事は[[2016年]]([[平成]]28年)6月23日の[[慰霊の日]]の式典の挨拶にてこの銘文を引用し、沖縄がアジア・太平洋地域と日本の架け橋になることを訴えた<ref>[http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/22/okinawa-celemony_n_10623188.html 沖縄慰霊の日、翁長知事「非人間的な凶悪事件に、県民は不安と憤り」辺野古移設中止求める(全文)] - 2016年6月23日、[[ハフィントン・ポスト]]</ref>。▼
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==鐘の音==
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