「鬼界ヶ島」の版間の差分

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{{otheruses|薩摩国の歴史的地名としての鬼界ヶ島|奈良県奈良市の歴史的地名としての鬼界ヶ島|鬼界ヶ島 (奈良市)}}
 
'''鬼界ヶ島'''(きかいがしま)とは、[[平安時代]]末期の[[1177年]]([[治承]]元年)の[[鹿ケ谷の陰謀]]により、[[俊寛]]、[[平康頼]]、[[藤原成経]]が[[流罪]]にされた[[島]]。[[薩摩国]]に属す。「鬼界島」は[[契丹]]・[[高麗]]と併称される遠国を指す[[一般名詞]]でもあり<ref name="Taniguchi">谷口広之「鬼界島流人譚の成立: 俊寛有王説話をめぐって」『同志社国文学』(15) 同志社大学国文学会 {{doi|10.14988/pa.2017.0000004922}} 1980年 pp.15-27.</ref>、[[古代]]以降、[[日本の端の一覧|日本の南端]]の地として長い間認識されていた。広義には南島諸島の総称として用いられ、[[鎌倉時代]]以後は'''十二島'''として[[薩摩国]][[川辺郡 (鹿児島県)|河辺郡]]に属した<ref name="Fujita">藤田明良「中世後期の坊津と東アジアの海域交流」、九州史学研究会(編)『境界から見た内と外』 <『九州史学』創刊50周年記念論文集>下 岩田書院 2008年 ISBN 978-4-87294-534-8 pp.363-365.</ref>
 
『[[平家物語]]』によると、島の様子は次の通りである。
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[[1178年]](治承2年)に康頼、成経は赦免され京に帰るが、俊寛のみは赦されず、独り島に残され、悲嘆のうちに絶食して亡くなった。
 
狭義の鬼界ヶ島の現在の場所ははっきりしないが、[[薩南諸島]]の以下の島のいずれかと考えられている。
* [[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]] - 『[[愚管抄]]』によれば、「俊寛ト検非違使康頼トヲバ硫黄島ト云フ所ヘヤリテ、カシコニテ俊寛ハ死ニケリ」とあり、歴史的な事実として俊寛は硫黄島に流刑になったと考えられる<ref name="Taniguchi"/>。また、『平家物語』の増補本の一つである延慶本には「鬼界嶋」は異名であり、惣名は「流黄嶋」である、とある<ref>原田信之「鹿児島県硫黄島の遣唐使漂着伝説と灯台鬼説話」『新見公立短期大学紀要 』30 新見公立短期大学 {{NAID|120006778867}} 2009年 pp.181-195.</ref>。[[1995年]]([[平成]]7年)[[5月]]に建てられた俊寛の銅像と[[俊寛堂]]がある。[[俊寛堂]]は俊寛の死を哀しんだ島民が謫居跡に俊寛の墓を移したとされ、拝所としていた場所に建てられたもので、毎年盆には送り火を焚いて悼む行事も行われてきた。なお、火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。
* [[喜界島]] - 俊寛の墓と銅像がある。墓を調査した人類学者の[[鈴木尚]]によると、出土した骨は面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。しかし、喜界島には硫黄が取れる[[火山]]はおろか、高い山もなく、高い滝ができるほどの川も見られず、『平家物語』の記述とは大きく異なる。
 
また、薩南諸島とは離れた[[長崎県]]の[[伊王島]]にも俊寛の墓があるが、この島も火山島ではない。
 
鬼界ヶ島を含む南島諸島は平安時代までは境界領域として帰属の定まらない状態だったが、鎌倉時代に入ると[[源頼朝]]によって派遣された[[天野遠景]]によって「貴海島征伐」が行われ、公式に日本国に組み込まれた<ref name="Fujita"/>。以後、鬼界ヶ島は所領単位として十二島と称され、薩摩守護の[[島津氏]]が[[地頭]]、[[北条氏]]の代官である[[千竈氏]]が[[郡司]]として支配した<ref name="Fujita"/>。
 
== 脚注 ==
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[[Category:三島村]]
[[Category:喜界町]]
[[Category:平家物語薩摩国]]